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〜#14 デフォルトをください〜

有名ハンバーガーショップMが、シアトルのコーヒーショップのまねをしてかどうかわからないが、ハンバーガーの具材やサイドメニューを顧客に幅広い選択肢から自由に選ばせるサービスを始めるという。こう言っては失礼だし、言葉も相当悪いが、はっきり言って血迷っているとしか思えない。高級料理店ならともかく、ハンバーガーである。店に入ってきた時点で、普段はいかに食べ物にうるさい客であっても、その時ばかりは「食」に対する関心がかなり下がっているはずだ。その、食に無関心になっている客に対して、「ポテトにしますか、サラダにしますか、パンケーキにしますか?」、「ハンバーガーにはベーコン、レタス、トマトがはさめますが、いかがなさいますか」などとしつこく聞いてくるというのである。想像するだけでうっとうしい。何でもいいのである。早く何か腹に入れたいだけなのだ。「ハンバーガーをください」と言ったら、黙ってハンバーガーを売ってくれればそれで良い。

シアトルのコーヒーショップSもそうだ。コーヒーショップなのに、「コーヒー」というメニューがないのが困る。それでも、モカ、キリマンジャロ、ブラジルといったポピュラーな豆の名前が使われているならまだいい。そうではなく、ユーコンブレンド、カフェベロナ、エチオピアシダモ....といった珍妙な名前をつけて、客を煙にまき、立ち往生させて何が楽しいのか。「名前を覚えればいいではないか」という意見もあるだろうが、なぜ一民間企業のためにこちらが努力しなければいけないのだ。筆者も一応忙しいのである。コーヒー店の勝手な都合に合わせている暇はない。ただコーヒーを飲ませてくれればそれでいいのだ。

同じようなことは、コンピュータにも言える。「万能機械」というくらいだから、何でもできる代わりに、何をするのか使う側が決めないとまったく使えない。本や雑誌を読むと、「まず自分が何をしたいのかを明確にしてから使おう」という具合にもっともらしく書いてある。なるほど、と一応思うものの、どうも釈然としない。それを使って何をしたいのか改まって考えなければいけない道具なんて...必要なのか?という疑問が湧いてくるのである。

筆者もコンピュータは使っている。この原稿だってコンピュータで作っている。でも、本当に自分にコンピュータが必要なのかはよくわからない。コンピュータに関係する本を訳したり、書いたりする際、仕組みや動きを確認するのにどうしても必要、ということはある。でも、それは日本ハムについて書く時に日本ハムまで行って取材する必要がある、というのと同じレベルの話であって、道具としてコンピュータを必要としているということにはならない。

もちろん、原稿を作り、それを出版社などに送るための道具や、情報を集め、整理するための道具は必要だし、あると便利なのである。だが、その道具が「万能機械」でなければならない、ということはない。今のところ、万能機械しか筆者の要望に応え得るものはないので、仕方がなく使っているだけである。しかし、わざわざ高いお金を出して万能機械を買い、みすみす機能を限定して使うというのはばかげていないか。

しかも、この機能を限定するための作業が非常に面倒だ。テレビはスイッチを入れる前からテレビだし、掃除機はスイッチを入れる前から掃除機なのに、万能機械は、スイッチを入れただけでは無能機械なのである。そして、まさに例のコーヒーショップのように、わけのわからない名前のメニューを並べて、その中から「欲しいもの」を選ばせるのである。カフェベロナやユーコンブレンドどころではない。プロパティ、テンプレート、MIME、SMTP、TCP/IP...「なんだこれは?」と思うような奇天烈な言葉を覚えなければいけないのだ。コーヒーショップなら、気の利く店員が一人いれば、開き直って「とにかくコーヒーをください」と言うことで切り抜けられるかもしれないが、万能機械ではそうはいかない。「原稿が作りたい!」と叫んでも、じっと押し黙ったままである。それどころではない。メーカーは、手前勝手に作ったわけのわからない言葉をお客に覚え込ませるための学校まで開いている。そこでも金を取るのである。資格試験まである。よくよく考えると、とんでもない話だ。コーヒーショップSもまさかここまではするまい。「カフェベロナとは何であるかを説明せよ」、「ユーコンブレンドについて述べた次の文のうち正しいものを2つ選べ」などと(金を取って)尋ね、答えられた人を誉めてやる、などということを始めたら店は確実につぶれるだろう。

「デフォルト」が好きだ。デフォルトは重要だと思う。デフォルトがない、あるいは貧弱な道具、サービスは使いづらい。自由な選択ができることは素晴らしいのかもしれないが、是非、デフォルトを充実させることにも力を注いでもらいたい。コーヒーにしろ、コンピュータにしろ、そのモノ自体には罪はないのである。ただ、それを利用する手段があまりに複雑になってしまうと非常に不快な思いをして使わねばならなくなる。「コーヒー!」と言ったら何もせずに一応コーヒーが飲めるような、「原稿を書きたい!」と言ったら、何もせずに一応原稿が書けるような、そういう製品、サービスでないと疲れてしまう。細かく選びたい人には選ばせればいい。でも、普通の人は、選べるということを忘れられるくらいの方が助かるのである。

パソコンが一時に比べ、売れなくなったという。「そのうちまた売れるようになるさ」という声もあるが、そうだろうか。筆者は普通の人がパソコンなどという「何をしてくれるのかわからないモノ」を買っていた今までの方が異常だと思う。現に、メールなどは携帯電話でするもの、という意識がかなり広がっている。ケータイでメールしている人は「自分は万能機械を使っているのだ」などとは考えていないだろう。実のところ、筆者はパソコンが売れていないということを知って「いい気味だ」と秘かに思っているのである。

2002年10月号

〜#13 アウトソーシングへの懐疑〜

筆者は主に翻訳で生計を立てている。こういうと、朝から晩まで来る日も来る日も英文を見ては日本語を書き、英文を見ては日本語を書き...ということを繰り返している人間と思われるかもしれない。もちろん、それが間違いであるとは言えない。そういう作業をしている時間が結構長いのは確かだ。しかし、実際に自分でこの仕事に就いてみると、思っていたよりは「翻訳している時間がやけに短いな」というのが正直な印象だ。翻訳が本業にもかかわらずおかしな話だが、翻訳そのものをする時間がなかなかとれないのである。実を言えば、油断をするとおそらく翻訳をしない日が何日も続くことになってしまうだろうとも思えるのだ。それではさすがに食えないから、そうならないよう細心の注意を払ってはいるが。なぜ、翻訳をする時間がとれないのか。言うまでもないがそれは、さぼっているから、ではない。さぼっているのであれば単なる自業自得であるから、特にそれを問題とも感じないし、「細心の注意」など払わなくても済む。ただ、やればいいだけである。

翻訳をしていない時には、翻訳を続ける上で必然的に発生する様々な作業に追われている。まず、「調べる」ということが必要だ。何冊もの本をひっくり返すこともあるし、いくつものWebサイトを駆けめぐることもある。本が足りなければ買いに走らねばならない。すぐに見つかるとは限らない。Webサイトはたいていの場合、検索エンジンなどで探すが、ヒット数はかなり多いのが普通だ。それを逐一見ていく。見て重要と思ったらブックマークをつけるが、これが放置すると膨大な数になる。それでは用をなさないので時折整理するが、怖ろしいほど時間がかかる。たどり着いたサイトに「Flashの最新版がないと見られません」などと書かれていることもある。仕方がないのでダウンロードしてインストールするのだが、この時マシン(iMac)がよく止まるのだ。すっかり何を調べようとしていたのかも忘れてやっとの思いで復旧すると、そこで電話が鳴る。「来週あたり打ち合わせをしたいのですが...」当然行かねばなるまい。翻訳を進めたいが、打ち合わせに行かねば、翻訳の仕事そのものがなくなってしまう。

「専門家に監修してもらえば難しいところは調べなくてもいいのではないか」、「細々としたことは単純作業が多いのだから、誰にでも任せられるのではないか」という意見もあるかもしれない。だが、なかなかそうはいかないのである。どちらにしても、協力を頼む人が「誰のために、何のために何をすればいいのか。最終的な目標は何で、今、自分はそこまでの過程においてどの位置にいるのか」といったことを筆者と同様に考えてくれない限り、余計に手間と時間がかかるだけだからだ。

まず専門家だが、こちらとしては彼らに「素人であるがゆえに知らないうちに常識に反した文章を書いていないか」を見て欲しいと思っている。しかし、彼らの多くは(もちろん全員ではない)そんなことをしない。「きまぐれな、ごくレベルの低い校正」をしてくるのである。どうでもいいところで「を」を「が」に直してみたり、「コンピューター」を「コンピュータ」に直してみたり、「ここは原文が過去形なのにどうして現在形なのか」と指摘してみたり...。それも漫然と見て気付いたところだけだ。時折、専門知識の説明はするものの、それは我々の知りたいところというより、彼らの「説明したいこと」なのである。つまり往々にして「説明しやすいこと」、「わかりやすいこと」なので、こちらも先刻承知のことだったりする。どんなにくだらない修正、指摘でも、対応しないわけにはいかない。少なくとも、何を直して欲しいのかを一応考えた上で無視する、というくらいの手数は必要だ。しかも、専門家には「権威」があるから、よく知らない人は「あの方がおっしゃるんだから」という雰囲気になるので厄介である。

単純作業を人に任せるのもそれと似たりよったりである。たとえば、「この荷物、明日必着で宅急便で出してください」と頼んだとする。時間によっては取扱店で「明日着は無理ですね」と言われることもあるだろう。その時、自分が何をしているのかを知らない(考えない)人間は、明後日着でそのまま出してしまうか、あきらめてただ持って帰ってきてしまう。しかも、出せなかったという事実を報告し忘れることすらある。こういう人間に何を言っても無駄だ。この場合、重要なのは宅急便を出すことではなく、明日までに相手先に荷物を届けることなのだ、という当たり前のことを講釈したところでまず、通じない。言ってわかるくらいなら、結局はミスをするにしてももう少し違ったミスをしたはずだからである。ただ「言われてないことはわかりません」の一点張りで通されるのがオチだ。

このようなことを翻訳者に限ったことではないだろう。会社員であっても事情は同じはずだ。筆者も会社員であった時、同様のことを多く体験したり、見聞きしたりしている。だから、国営放送が放送する番組を取り違えた、といった不祥事のニュースを聞いてもあまり驚かない。むしろ、なぜこのくらいで済んでいるのだろうと思うくらいだ。

最近、アウトソーシングという言葉をよく聞く。また、業務提携も盛んに行われているようである。果たしてうまくいくのだろうか。どうも懐疑的にならざるを得ない。「お互いの強みを活かして」などというが、逆に「弱みの二乗」になりはしないか。お互いの仕事がわからないのだから、お互いが何をしたいのか、そのために何をして欲しいのか、といったこともおそらくわからないはずだ。一所懸命に仕事をした、その結果を互いに見せ合って驚愕する、そんなことばかりではないか。国営放送に限らず、企業不祥事の報道が相次いでいるが、今後ますますそれが増えるのではないか。日頃我々は様々な商品を特に何の不安も抱かずに買っているが、安心などとてもしていられる状況ではないのかもしれない。少し覚悟をしておいた方がよさそうだ。

2002年9月号


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