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〜#12 「少数派」マーケットでビジネスは可能か〜

気に入っている店がよくつぶれる。特に飲食店。理由ははっきりしている。筆者が気に入る店とは、第一に「すいている店」だからだ。天の邪鬼...と思うかもしれないが、特に人の反対をしているつもりはない。静かなところでないと落ち着かず、味もわからないというだけのことだ。ラーメン屋などに並んでいる人の心理はまったく理解できない。筆者から見るとまるで火星人である。後から後から人がやってきて、「早く出ろ」という圧力の中での食事の何が楽しいのか。それも、たまたま行った店が偶然混んでいた、というのならわかるが、わざわざ混んでいるところにいくとは...。

だが、それは「大きなお世話」、「人の勝手」というものである。筆者がとやかく言うことではない。人のことはこの際、どうでも良いのだが、ともかく、自分にとって、徐々に暮らしにくい世の中になっている、というのは深刻な問題である。「すいている店がすいているまま存続して欲しい」と、完全に矛盾したことを望んでいるのだから、仕方がないと言われればそれまでだが。

ここで、「不景気になり、しかもマーケティングが発達すると、多数派に支持される店ばかりが街に並ぶことになる」とか、「個性がなくなって嘆かわしい」などと言うと、きれいにまとまるのかもしれない。しかし、単にそんなことを言ってもはじまらないだろう。皆、儲かる方が好きだし、儲からないと生きていけないのである。ただ、一つ言えるのは、筆者のような人間も決して少なくないだろうということだ。

つまり、「すいている店なら行く」という、それほど小さくはないマーケットが存在するということになる。マーケットが存在するなら、それに向けたビジネスはできるのではないだろうか。易しくはないと思うが、大勢の人に金を払ってもらって、それで稼ぐ、というビジネスはあまりに多くの人がやっている。そこで競争に勝ち抜いていくことも楽ではないだろう。ならば、立地を工夫したり、宣伝を地味にするなどして混まないようにし、はじめから、「すいている」ということを売り物にする、というのも一つの考え方ではないかと思う。

「混まない店」のメリットは、まず「忙しくない」ということだ。中には忙しいのが好きな人もいるが、多くの人は「ひたすら働きづめというのは、どうも...」と思っているはずだ。混まない店をやっていれば、忙しさで目が回り、他のことは何も考えられない、というようなことはあり得ないだろう。時間にゆとりがあれば、店をよりよくするための方法をじっくり考えることができるかもしれない。数少ないお客をさらに減らさない工夫もできるだろう。また、その気さえあれば、一人一人のお客を、混んでいる店では考えられないほど丁重に迎えることも可能である。それによって客が喜べば、仕事は間違いなく楽しいだろう。

このようなビジネスをしている限り、店はまず、大きくはできない。店の規模が大きくなり、従業員が増えれば、維持費、人件費を稼ぐために、どうしても客を増やさねばならないからである。一人だけで切り盛りするか、せいぜい家族経営くらいでないと難しいだろう。「自分と家族だけが食べられれば良い。贅沢はできなくても、楽しく生きられれば」という発想でやるのだ。それも生き方の選択肢ではないか。大企業でキャリアアップをしたり、一発あてて億万長者になるばかりが成功ではない。「楽しく生きています」と自信を持って言える、というのも立派に成功である。

今は、家族経営の個人店舗がどうにも立ちゆかなくなり、チェーン、フランチャイズ、大規模店舗に次々ととって代わられている時代ではないのか...と言われてしまうかもしれない。そう言われれば確かにそのとおりとも言える。しかし、そうした「街のお店」が皆、「うちは混まなくていい。一人一人を大切に細々とやっていきたい」と明確に考えているかというと、そうでもないのではないか。あわよくば大繁盛させて大企業に...ともくろむ野心家や、代々受け継いでいるので何となくやっているがはっきりした目標はない...という感じの消極派も多いのではないだろうか。そして、近くにファミリー・レストランやスーパーができて、つぶれてしまった、という店は、たいていどちらかに当てはまるのではないか。

企業が合併を繰り返すことで、巨大化している時代である。街では、「再開発」の名のもとに、超大企業の手掛ける極端に大規模な店舗、施設が次々に作られており、どこも大変な人混みになっている。おそらく、IT、通信技術などをフルに活用したシステムで効率的にマーケティングなどを行って、売れるものばかりを置き、たくさんの人を引きつけているのだろう。商売繁盛で結構なことではある。利用する側としても、便利で清潔で、そこそこに楽しい思いもできるのだから、特に何も言うことはないように思える。だが、そのような、綿密な計算のもとに何もかもがお膳立てされた「サーモスタット付き水槽」のような施設ばかりの街になって、本当に皆、満足なのだろうか。そういう街では、良い意味でも悪い意味でも「何でこんなところにこんなものが」というものは決して見つからない。大外れもしない代わりに大当たりもしないのだ。

日本中こんな「予定調和」の街ばかりになる前に、超大企業のものとは異なる、「儲からなくても楽しければいいや」的個人商店ビジネス・モデルが流行してくれないか、そうすれば少なくとも、筆者が日々静かに食事をすることだけは保証されるのに、と勝手に夢想してはいるのだが、おそらく夢のまま終わるだろう。「儲からなくていい」などと誰が思うというのだ。また、現実問題、「楽しければいいや」という姿勢では、儲かるどころか、ただ続けるだけでもムリかもしれない。自分で何もせず、人に期待しても無意味、ということだ。せめて、すいている店にできる限り通い、一日でも長い存続を微力ながら助けることにしよう。今日は「長い間のご愛顧、ありがとうございました」という貼り紙がありませんように。

2002年7月号

 

〜#11 「これ欲しいでしょう」と言われても…〜

不気味な電話
「もしもし、夏目さんのお宅ですか」
「はい」
「〜証券のAと申します。突然で大変失礼かとは思いますが、今回は金投資をお勧めしたく、お電話差し上げました」

何の前触れもなく見知らぬ人間から電話がかかる。それも、よりによってかなり忙しい時に。今から思うと、「新聞等で確かめていただくとわかりますが、金の価格が急激に上昇しているんです」という言葉に、「ああ、そうですってね。株も債権も銀行預金もアテにならないからって...」などと受け答えをしてしまったのがまずかった。どうも関心があると思われてしまったらしい。「日々食べていくのがやっとの状態で、とても投資に回すような余剰資金はない(この言葉が単なる逃げ口上だとうれしいのだが、まったくウソ偽りがない、というのが非常に残念)」と言ったのだが、何だか全然聞いていない様子。結局「資料を送らせてくれ」と言い出した。

住所を尋ねられたら、「答えたくない」と言ってそこで切ってやろうと思っていたのだが、「えー、ご住所は、〜で良いのですね」と寸分の間違いもなく言われたのにはゾッとしてしまった。思い切って「こういうの、どこで調べるんですか」と聞いてみると、「一介の平社員ですので、そういうことはよくわかりません」と答えになっているようななっていないような台詞でかわされた。

電話を切った直後は「住所は知っていたけど、投資をするほどの金を持っていないことまでは調べられなかったのだから大したことはない...」と思ったのだが、しばらくして実はそうとも言い切れないことに気付いたのである。競馬でもパチンコでも、「有り金はたいて一発勝負で大儲け」などと考えるのは、普通、金持ちではない。その日の暮らしもままならない状態だからこそ、そんな考えも起きる。そういう意味では、見込みのありそうな相手を選んでいる、と言うことなのかもしれないのだ。そういえば「面白いですよ、100万円が1000万円になるんですから...」などと、うさんくさいことを言っていた。よく検討した上で「カモ」と思われたのだと考えると、無性に腹が立つ。もし、自分が万一投資に手を出すとしても、この会社にだけは頼まないでおこうと思う。

CRMの有効性
こういうことがあると、果たしてCRMなどの、顧客の個別のニーズに応えるための工夫、というのがどこまで有効なのか、と考えてしまう。そういえば、アマゾンには、最近、「マイページ」というものができた。これまでにチェックした本のリストと、それを基に割り出したお勧め本のリストを表示するページだ。また、「あわせて買いたい」という抱き合わせ販売の機能もできている。これで喜んでいる人がいるのだろうか。少なくとも筆者はかなり不愉快に感じている。「マイページ」を見ると、まるで「ほう、お前はこういう本に興味があるのか、じゃあこういう人間なんだろう?」と邪推されているようだ。これが妙に当たっているのも嫌だが、まるで見当違いなのはもっと嫌だ。ちなみに筆者の「マイリスト」の「おすすめ」にはカルロス・ゴーンの「ルネッサンス-再生への挑戦」という本があげられているが、これなど「見当違い」の典型例と言えるだろう。なぜこれが入ってきたかもわからない。筆者が決して読まないタイプの本である。しかも、時には「おすすめ」というからその本の紹介ページにアクセスしてみたら、「在庫がないのでお取り寄せとなります」などと書いてあったりして、何を考えているのだろう...と思う。たとえば、魚屋が「店には置いていないし、入るかどうかもわからないけど、タイがうまいよ。4週間たったら入荷するから、今買ってくれないか」と言う、ということがあるだろうか。

もちろん、こうしたリストによって、存在すら知らなかったような本を知ることができるというメリットはある。しかし、本屋はアマゾンだけではない。たとえ「おすすめ」の本に興味をもったとしても、筆者なら、不快な扱いを受けたアマゾンではなく、他の店で買う。アマゾンのシステムを作っている人はこんなこともわからないのだろうか。いや、アマゾンに限ったことではない。先の証券会社もそうだ。自分がどういう店で買い物をしたいかを少し考えてみればわかることのような気がするのだが。社員が個人として色々と考えてもどうにもならないことがあるのかもしれない。

「顧客一人一人のニーズを詳細に的確につかみ、それを踏まえた行動を取る」ということ自体は正しいことであるに違いない。自分のことをよく知っていてくれることがうれしくてその店を利用する、ということも確かにあるのだ。では、ほとんど同じようなことをされて、腹が立つ場合と、うれしい場合があるのはなぜだろう。両者の違いはどこにあるのだろうか。まず言えるのは、客は、「自分がよく知っている(と感じている)店、企業になら、自分のことを知ってもらいたい」と考える、ということだ。「知っている」というのは、売上がいくらで、利益がいくらで社長が何という名前で...といった情報を持っている、という意味ではなく、中にいる誰か(社員、店員)を知っている、という意味である。しかも、その知っている人が嫌な人、役に立たない人であってはいけない。少なくとも一度は、「この人に頼んで良かった」と感じていなければいけないのだ。当然、良い商品が安く手に入ったなど、何か実利があって「良かった」と感じたのであればそれが一番だ。だが、実利はなくとも、「非常に良い対応をしてくれ、爽快だった」ということで十分、ということもある。

ここまで読んで何かを感じないだろうか。そう、客にとってこのような存在になることは、商売をする人間にとってはるか昔から奨励されてきたことである。CRMなどは、これができた上にさらに力をつけるための武器でしかないのだ。逆に、できない人間がこの武器を持つと、客から見ればさらに忌むべき存在となってしまう。とここでこんなことを書いても不快な勧誘電話がなくなるわけでもないだろう。できることと言えば、せめて家にいない時にかけてきてくれないか、と祈ることくらいだ。

2002年6月号


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