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〜#8 「わかりやすい」ということ〜

世の中にはわかりやすいものとわかりにくいものがある。たいていの人はわかりやすいものの方が好きだろう。両者の区別は比較的簡単につくが、わかりやすい理由、わかりにくい理由はなかなかわからない。中には、本当はわかりやすいことのはずなのに、説明が悪いために「わかりにくい」と感じられることもある。これが非常に多いのである。今回は、この「わかりやすい」、「わかりにくい」ということについてあれこれ話してみよう。

人によって違うだろうが、「わかりにくい説明」と聞いてかなりの数の人が最初に連想するだろうと思われるものに、「哲学の本」があげられる。筆者もハイデガーやニーチェの本を読んで、決しておおげさでなく、あまりのわかりにくさに3行で熟睡してしまったことがある。こういう本が難しいのは「翻訳」のせいだ、ということもよく言われる。原語がもし読めたら、それほど理解するのに苦労することはない、というのだ。「なるほど」と思わされるが、なぜ、翻訳のせいで難しくなるのか、ということにはあまり誰も触れない。ただ、「ヘタな翻訳をするから難しいが、うまく翻訳すれば易しくなる」というばかりである。しかし、そもそも、ほとんどの訳者が懸命にうまくやろうとしているのである。ヘタに訳そうとしている人間は少ないはずだ。それにもかかわらず、なぜ「ヘタ」になり、わかりにくくなってしまうかをよく考えてみるべきだ。

他の言語のことはわからないが、原語が英語の場合、翻訳してわかりにくくなるのは、主に英語の持つ「曖昧性」が原因である。この言い方自体わかりにくい、という声が聞こえて来そうなので、もっと詳しく説明してみよう。「曖昧」というのは、要するに、「複数の意味にとれる文が多い」ということである。どうして複数の意味にとれる文ができやすいかと言うと、一つには、「名詞的」な表現が多いからだ。たとえば、日本語では、「彼女は水泳が得意だ」というところを、英語では、"She is a good swimmer."と言う。"She swims well."と言って言えなくはないが、あまり言わない。ただ、困るのは、"She is a good swimmer."という同じセンテンスが「彼女は優秀な水泳選手だ」という意味にもとれるという点だ。どちらかを判定するには、前後関係を見ることになる。もちろん、このくらいのレベルの英文なら、前後関係を見て判断できないことは稀だろう。だが、"swimmer"の部分が、もっと難しい単語だった場合には、前後もやはり難しく、判断がつかないこともある。そして、もっと大変なのは、そのセンテンスを含む文章(論文、本など)全体が何か他の文献の知識を前提としている場合である。この場合はほとんど判断がつかないと言って良い。判断がつかない時、翻訳者はどうするか。"swimmer"を「水泳者」と訳すような方法で逃げるのである。「彼女は良い水泳者だ」。これでは何を言っているかわかりはしない。中には、このように苦し紛れではなくて、はじめから「彼女は良い水泳者だ」と訳すのが正しいと信じて疑わない人もいる。むしろその方が多いかもしれない。ともかく、このような訳し方をされてできた文章を読むには、訳者が放棄した「前後関係を見る」、「前提となっている文献を見る」といった作業がすべて読者の仕事になるのである。理解が困難なのはそのためだ。

ただし、どこまでが翻訳者の仕事か、ということが明確に決められているわけではないので、同じ文献の中の前後関係を無視した場合はともかく、他の文献を見ていない(あるいは見ようとしたが見つからなかった)からといって、一方的に翻訳者を責めて良いものかどうかはわからない。また、後者の場合は、「翻訳が悪い」というより、内容が本当に難しい、という可能性が高いのである。

本当に難しいことはたくさんある。少し前は、「難しい」と感じた時に「自分が不勉強だからだな」と考える人が多かったような気がする。しかし、いつからか「難しいのは説明する人間の頭が悪いのだ」と考える人が増えたようだ。そういうことを言うえらい先生が増えたからだろう。本当に難しいわけではないことをいたずらに怖がる人が減ったという点では良い傾向とも言える。ただ、一方で、本当に難しいことについて立ち止まって考えない、というのは問題である。アインシュタインの言うことや老子の言うことを、すぐに「わかった」と思う人がいたらそれは大天才か勘違いである。相対性理論をサルでもわかるように説明できないからといって、それを「悪」だとは言えないだろう。

最近、難しいはずのものをわかりやすく説明しようとした本などがかなり出回っている。テレビ番組などにもそういうものが増えているような気がする。確かにわかりやすいのは良いことかもしれないが、怖いのは、それが「わかりやすい」を通り越して「短絡」になりがちなことである。「要するにこういうこと」と言ってくれれば気分は良いが、一言でまとめられるほど単純なことは実はあまりないのである。たとえば、皆が反対する法案に一人だけ賛成する国会議員がいた場合に、「あいつは法案で得をする団体に金をもらっているんだ」などと言えばとてもわかりやすい。もちろん、それだけの説明で十分なこともあるだろう。ただ、実際にはそういう簡単な話ではない、というのが普通である。特に、善悪、敵味方を判断する際には、情報が不当に単純化されていないか注意すべきだ。あまりに綺麗に、あまりにわかりやすい説明をされた時には警戒するくらいでちょうど良いのではないだろうか。

これは、決して、筆者が「うまい翻訳」ができず、わかりやすい文章が書けない言い訳をしているのではない。

2001年11月号

 

〜#7 夢のまた夢〜

村上春樹に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」という小説がある。その中で「百科事典棒」という奇妙な棒のことが語られている。百科事典棒とは、その名のごとく、百科事典のすべての情報を組み込める棒のことだ。いったいどうしてこんなことが可能なのか。その理屈は比較的簡単だ。多少、コンピュータの知識があれば理解できる。百科事典棒に情報を組み込むには、まず、百科事典中の文字をすべて二桁の数値に置き換える。Aは「00」、Bは「01」といった具合だ。それを順に並べた後、先頭に小数点を置いて、果てしなく長い小数を作る。この小数を棒に組み込むわけだが、それには、棒の一方の端を0、もう一方の端を「1」として、ちょうど組み込みたい小数に対応する地点を探す。その地点が見つかったらそこに傷を付けるのである。この傷の位置を正確に知ることさえできれば、百科事典の全ページと言わず、どれほど長い情報でも記録できる。理論的には、人が一生に経験するすべての事象を記録することも可能なのである。

瀕死の状態になった時などに、一瞬のうちにこれまでに経験したことをすべて思い出す、という話がある。こういう話を聞くと「それに近いことはあるかもしれないが、大げさに言っているんだろう」とつい思ってしまう。だが、人間の記憶のメカニズムは、完全にはわかっていないのである。百科事典棒と同じ手段ではないにせよ、何らかの方法で、これまでのすべての記憶がどこかに非常にコンパクトにまとめられていないとは言えない。そして、何かのきっかけでそれが一度に表に出ることもあるのかもしれない。「一生分の経験なら、追体験に一生分の時間がかかるのではないか」という意見もあるだろう。だが、そうとも言い切れないのである。たとえば、「夢」。夢の中でとてつもなく長い時間が経過したはずなのに、目覚めてみたらそうでもなかった、ということはないだろうか。筆者は、朝起きたつもりがいつの間にかまた眠ってしまい、「食事をして、顔を洗って、駅まで行き、電車に乗る」という夢を見たことがある。その行為が現実ならば一時間くらいはかかる。しかし、夢だと気付き「遅刻だ!」と目覚めてみたら、十分くらいしか経っていなかった。強制収容所のようなところで一年間過ごす夢を見たこともある。その夢を見るのにおそらく一時間あまりしかかかっていなかっただろう。

夢でなく覚醒している時であっても、体験の量と経過時間に著しい不一致が起こることは珍しくない。時間がこのように相対的なものであるとすれば、今後、コンピュータの進歩や、百科事典棒のようなものの実現によって、ごく短い時間に今の何倍もの体験をすることも可能になるかもしれない。また、現在「仮想現実(バーチャル・リアリティ)」と呼ばれているものが、人間にとって本当の「現実(リアリティ)」と同等、どころかさらに重要な意味を持つような時代がやってくることも考えられる。

今、「量子コンピュータ」というまったく新しい方式のコンピュータの開発が進められている。この量子コンピュータの話を聞くと、こうした空想がさらにかきたてられる。量子コンピュータは、従来のコンピュータのように、「0か1」を表す「ビット」ではなくて、「0と1の両方」を同時に表す「キュービット」という単位を基礎として動作する。するとどうなるかと言うと、百科事典棒のように無限とはいかないまでも、はるかに多いデータを記憶でき、はるかに速い計算ができるのである。同じキュービットで同時に複数のデータを蓄え、複数の計算をすることができるからだ。

日常生活に背を向け、ロールプレイング・ゲーム等の仮想現実にふけっている人のことを「現実逃避している」と言うが、仮想現実が現実よりはるかに濃密になった時、その世界で生きることを現実逃避と非難することは果たして適当と言えるだろうか。それとも、この先、人間は複数の人生を同時に生きることになるのだろうか。電源を切ってしまえばおしまい、なのかもしれないが、現実の世界よりもはるかに「リアル」な人間、動物などを一瞬にして消すことに何の感情も抱かずにいられるのだろうか。そうもいかないような気もする。

2001年9月号


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