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〜#6 道具の都合〜
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かつて、YMO(Yellow Magic Orchestra)というグループがあった。それまでまったく耳にしたことのないような異様な音楽。聞けばシンセサイザーという機械で音を合成し、コンピュータに自動演奏をさせているという。コンサートのステージはまるで機械の城のようだった。人間がどこにいるのか、よく見ないとわかりにくい。「機械が演奏するなんて心がこもらないんじゃないの?」という声もあったが、あまりの大人気にそれもかき消されていった。 最近、パソコン・ショップに行くと、このYMOの音楽をパソコンに演奏させているところに出くわすことがある。一瞬、レコードがかかっているのかと思う。あのステージ一杯の機材と同じものが今は机の上に乗ってしまう。今なら誰でもYMOになれるわけだ。だが、それでも、YMOの価値が下がったとは思わない。パソコンで演奏されているYMOは、確かに本物そっくりなのだが、よく聴いてみると何かが違うのである。その違いを言葉でどう表現すれば良いのか迷うが、簡単に言ってしまえば「どこか偽物」、「おもちゃのような感じ」ということになる。 これではあまりにわかりにくいと思うので、もう少しよく考えてみよう。パソコンの演奏がおもちゃっぽく、偽物に感じられる理由は、一つには、「リズムが正確過ぎること」があげられるのではないだろうか。音楽教室などにいけば「リズムは正確に」と教わるし、元来、正確なことは機械の最も得意とするところだから、何も問題はないように思えるのだが、これがどうやら機械の困ったところらしい。人間の作り出すリズムには、絶対にズレがある。リズムを極端に外したアマチュアの演奏は気持ち悪いが、完全に正確なのも気持ちが良いわけではない。たとえば、ブラック・ミュージックなどのリズムは完全に正確なものよりほんの少しだけ後ろにズレている。そうすることによって、「ノリ」、「グルーブ感」といった、その音楽ならではの「良さ」が生まれているのである。そして、YMOも実は、機械に演奏させているにもかかわらず、決してリズムを完全に正確にはしていなかったという。わざとリズムを少しずらすようにプログラムを組む、という回りくどいことをしていたというのである。こうなると、何が何だかわからないが、ともかく、どうやら音楽を本物の音楽らしくしているのは、通常は排除すべきと言われている「ズレ」や「揺れ」らしい。 「やっぱりアナログには"味"がある」というような言葉をよく聞くが、この言葉の表しているものの正体が、「ズレ」や「揺れ」なのかもしれない。どうしてズレたり、揺れたりするのが気持ち良いのかは筆者にはわからないが、ここで注目したいのは、音楽に限らず、こうした「味」がたいていの場合、「道具の都合」で生じているということだ。絵を描く人にしろ、音楽を作る人にしろ、ともかく、作品を作る前にはその理想的なイメージが頭にあるのだと思うが、それを具体化する時には、どうしても道具がいる。すると、絵筆の毛の乱れや色の作り間違い、楽器の調律の狂いや雑音などが入り込むのは避けようがない(これは、あくまで極めて厳密に言えば、の話である)。しかし、そうしたいわば「ノイズ」のようなものが、偶然にも素晴らしい効果をあげることがある。その効果は人間がいくら頭をひねっても得られないようなものだ。現に、そのおかげで不朽の傑作となった作品も数多い。 コンピュータも道具の一種だが、いわゆる「アナログ」の道具に比べ、「都合」の極端に少ない道具である。また、それが最大の特徴とも言える。一般には、何かの表現をしたいときに道具の都合に振り回されるのは気分の悪いものだから、コンピュータは表現者にとって歓迎すべきものなのかもしれない。だが、そこに大きな不安も感じる。道具の都合、偶然のもたらす思わぬ効果などが取り去られたとして、思う存分発揮される人間の創造性はいかほどのものなのだろうか。超一流の人(YMOなどはそれに含まれるだろう)を除き、はなはだ心許ないと言えないだろうか。世界中が同じような、何の波乱も意外性もない、予定調和的な芸術作品で溢れ、退屈でたまらなくなるような時代が来るかもしれないと思うと慄然とする。その時まで生きていたくはないとも思う。 これは悲観論に過ぎるのかもしれない。筆者はただ、旧時代の価値観にとらわれているだけなのかもしれない。そうであって欲しいと思う。いずれにしろ、道具が新しくなったのなら、それに対応してどうにかやっていかなくては、と思うしかないことは確かだろう。 2001年7月号 |
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小・中学校の教科書の内容が3割も削減される。試験での正答率が低い項目を削り、「全員100点」を目指すという。削減された項目は、理科を例にとると、小学校では、「体温の変化」、「昆虫の成長の過程」、「人の感覚器官」、「物の性質と音」など、中学校では「天気図の作成」、「火山活動とマグマの性質」「進化」、「遺伝子」、「イオン」、「電子」、「質量と重さ」など。削減されても、中学校、高校でいずれ学ぶものもあるが、科目の選択によっては一生勉強しないまま、というものもある。「原子の周期表」もそれに当たるというから呆然としてしまう。周囲に「すいへーりーべー」などといっても通じない人が大勢いる、という日が遠からずやってくるわけである。別に「日本の将来が...」などと大上段に構えるつもりはない。しかし、そんな連中と口をきくことになるのかと思うと気が重いのは確かだ。 また、何より憂鬱なのは、「全員100点」の美名(?)のもと、「できる子もできない子もない。みんなおんなじ」などと信じ込まされたまま大人になる人が多くなるかもしれない、ということである。たとえまったく同じ条件で学習しても、すぐに身に付けてしまう子と、なかなか身に付けられない子がいる。これは厳然たる事実だ。筆者自身、小・中学校時代「どれほど努力しても、あいつには絶対かなわない」と思い知らされ、何度となくうちのめされた。しかし、その時はつらかったものの、自分が客観的に見てどの辺にいるのかがわかったことはよかったと思っている。努力すれば少しはできそうなことは何か、努力しても無駄なことは何か、が明確になったのである。逆に、いつまでも「努力すれば何でもできる」などと間違った自信を持ち続けていたら、結局は何の努力もせずに来てしまったかもしれないと思う。 全員に分かるまで懇切丁寧に教えるのが当たり前、ということになると、「難しいこと、わかりにくいことは悪」、「わからないのは説明する方が悪いのだ」という考え方が蔓延するかもしれない。もちろん、わかりやすいはずのことをわざわざ難しく説明するのはおかしい。しかし、世の中には本当に難しいこと、というのはいくつも存在するのである。それを無理に簡単に言おうとすると、正確さを著しく欠くことになる。難しさ、わかりにくさを忌避する態度はすでに相当広まっている。たとえば、「すぐわかる」、「今日から役立つ」という謳い文句の即物的な本ばかりが売れ、抽象的な概念を書いた難解な本はほとんど売れない。「そんな難しいことを知っても日々の生活には役立たない」、「自分にわかるように書けないのは書き手の頭が悪いせいだ」ということを言って自分を正当化する人もいる。 すぐにわかってすぐに役立つものばかりをもてはやす人は、そういうものが、すぐその時だけにしか役に立たない、ということを見落としていないだろうか。これは、どこかから100万円の現金をもらえば明日の決済日を乗り切ることはできるかもしれないが、長期的なビジョンがなければ早晩会社はつぶれてしまう、ということに似ている。教科書から削られる項目は、「抽象的で、目には見えず、何の役に立つのかすぐにはわからない」というものに集中している。十分にはわからないまでも、取りあえずはムリにでも難解な知識を詰め込み、何年か後に「ああなるほど、勉強して良かった」と心から思う...そういう体験を経ていない人間は「今さえ良ければ」と刹那的になってしまうのではないか。 知識もない、自分に何ができ、何ができないかも知らない、抽象的な思考もできない、そういう人が増えれば、最も深刻な打撃を受けるのは恐らくIT業界だろう。プログラムを組むには、知識、抽象的な思考が不可欠である。また、自分の身の程を知らなければ、バグだらけの使いにくいプログラムを作って人から批判されても反省しない、ということになるだろう。銀行のATMが頻繁に止まり、飛行機が次々に落ち、電話もまともに通じない、そんな日が来るかもしれないと思うと慄然とする。いつの時代にも、学校教育の不備などには負けない優秀な人は出てくると信じているが、これからの学校に臨むことはもはや優秀な人材を育てることではない。優れた素材が育つのを邪魔しないで欲しいということだけだ。 2001年6月号 |
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