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〜#4 求む!コンテンツ批評家〜

「私の〜が世界のコンテンツになるなんて」というTVコマーシャルがある。自宅で飼っている犬や、自分の子供を撮った映像など、とにかく何もかもインターネットを使えば簡単に世界中に発信できるのだよ、ということを言っているらしい。これは、WWWがマルチメディア化し始めた頃から言われていたことだが、ようやく広く一般の人に向けてそういうメッセージを出して受け取ってもらえる状況になってきたということだろう。

何かを作れば誰かに見てもらいたい、読んでもらいたい、聴いてもらいたい、というのは自然な感情だろう。誰の目にも耳にも触れないものを作っても張り合いがない。突き上げるような創造意欲があるけれども、残念ながら発表の場はない、というような人にとっては、インターネットは素晴らしいものに違いない。しかし、一方で、インターネットというメディアによって、これまでにはまったく自覚したことのなかった創造意欲がかきたてられるという人もいるはずだ。

クリエイティブな人が増えて、これはとても結構なこと...と言いたいところだが、人は送り手になるばかりではない。むしろ受け手である場面の方が多い。受け手になった時、この「誰でも簡単に作品を公開できる」という状況は喜ばしいものと言えるだろうか。人間に与えられた時間は有限だ。すべての「創造物」を鑑賞している暇はない。できれば質の高いものを選別したい。他人の家の飼い犬をじっくり見ているわけにはいかないのである。しかし、インターネットではすべてのコンテンツは原則的に平等なので、どうしても玉石混淆にならざるを得ない。以前なら、メディアに乗るまでに十分な質のないものはほとんどふるい落とされたのだが、今はそうはいかない。

デジタルというのは、「誰にでもそこそこのことができるようにする」技術である。何もコンピュータを使う場合に限ったことではない。「肉に何分火を通して、パンの厚さは何ミリにする...」というファースト・フード店のマニュアルのように、すべてを数値化してあればデジタルだ。工業製品などでもデジタル化が進み、「名人芸」と言われた技術はかなり数値に置き換えられている。その結果、得られるものは、実は本当のプロの技からはほど遠いものの、素人目にはさほど差がないように見えることもあり、また、差はあったとしても、「まあ、これでもいいか」と思えることも多い。「創造」に関しても、単なるモノほどではないにしても、一応の作品は一昔前よりはかなり簡単に作れるようになってきている。これも、よくよく見ると、プロとの差はさらに圧倒的なのだが...。デジタル化が進む以前、少数の名人にすべてを依存していた時代には、モノが今ほど多くの人にいきわたらなかったのだろうから、今の状況は人間がモノ(あるいはチャンス、権利など)を欲しがった結果なのかもしれない。

このままでは、あらゆるものが平均化、平準化され、さほどひどいものもない代わりに、目を見張るほどすごいもの、鍛えられた目にしかわからない良さを持つものがなくなってしまうのかもしれない。それはそれで安心して住める社会なのだろうが、退屈でたまらないのではないか。そういう不安を覚える。

皆が平等であるというのが素晴らしいことは言うまでもない。だが、それは「誰もが同じことができるようにしなければならない」ということではない。絵の上手な人も下手な人もいる。楽器のうまい人も下手な人もいる。元来は下手な人に、機械の力を借りて、「まあまあうまい絵」や「まずまず聴ける音楽」を作らせてどれほどの意味があるのかわからない。最近、小説を読む人は減っている一方で、書きたい人は増えているらしいが、「簡単に送り手になれる」という状況は、そういう、他人の作ったものとの比較をしない独り善がりな人を増やしてしまうのではないか。

とはいえ、「誰もが発信できる」ということは、運がない、金銭的に恵まれない、性格が消極的、など創造性とは関係のないところで優れた才能の芽が摘まれないということも意味する。必要なのは、良いものを見つけだして多くの人に紹介する、という仕事のできる人材ではないか。そういう「コンテンツ批評家」とでもいうべき人がその仕事だけで生活ができるようなシステムが作れないか...そう夢想している今日この頃である。

2001年5月号

 

〜#3 テレビと傘の不思議な関係〜

「めざましい技術の進歩」、「急激な変化を続ける社会」といった言葉が毎日飽きるほど繰り返されているが、意外なほどに変わらないものもある。雨が降ったときに、濡れずに歩く方法を知っている人はいるだろうか。傘をさせばいい、という答えが大半だろうが、少し強い雨でも、特に強風でも吹いていれば傘がほとんど役に立たないことは、誰もが知っていることだろうと思う。地球の裏側に瞬時にメールを送る、ということが簡単にできるのに、大雨が降ったらやはり数百年、数千年前の人と同じようにズブ濡れになってしまう、というのはよく考えると何とも不思議だが、多分、雨に時折濡れるからと言って誰も心底困っているわけではないのだろう。

なぜこんなことを書くかというと、このごろすっかり増えたWebサイトなど、インターネット関連のテレビ広告を見ていたら、ふと「これは今も昔も変わらず傘を使い続けていることに少し似ているのかもしれない」と思ったからだ。もちろん、テレビは傘よりもはるかにハイテクだが、「次世代」ともてはやされているものから比べれば、明らかに旧時代の技術に属する。だと言うのに、新しいWebサイトが立ち上がったり、画期的な通信サービスが始まったりすると、その「テレビ」に派手なコマーシャルが流れる。これは、そうしなければ知名度が上げられないこと(アクセスしてもらえないこと)、あるいはそうするのが知名度を上げるのに効果的であることをおそらく意味するのだろう。コマーシャルを流すのにかかる費用を考えれば、そう考えてもおかしくはないだろう。

「テレビはもうダメだ」という意見が聞かれるようになって久しい。テレビを批判することが「知的」であることの一つの象徴になっているような気さえする。「テレビばかり見ている」という言葉を聞いた時、「それは充実した知的興奮に満ちた毎日ですね」という感想を持つ人は少ない。積極的に支持している人はあまりいないのである。念のために言っておくと、ここでいう「テレビ」とは、最も古くからある、地上波の、特に民放を指す。「テレビ」と聞いて多くの人が真っ先に思い浮かべるもののことだと思ってもらえれば良い。BS、CSといった衛星放送、ケーブルテレビなどはひとまず別物と思って欲しい。

Webサイトなどの広告にテレビが使われるのは、「今のところまだテレビが優勢なメディアだから」という気持ちからかもしれない。しかし、筆者は、この関係、テレビの優勢は将来も長きにわたって続くだろうと考えている。また、方式がデジタルになるという変化はあったとしても、テレビというもののスタイルは今とほとんど変わることはないとも考えている。

その理由は、傘があきれるほど長い間使われているのと同じようなものではないかと思うのである。簡単に言うと、ほとんどの人は傘と同じように「テレビにも困っていない」のである。見ている時には色々と不満を感じることもあるし、「素晴らしい」とも思っている人も少ない代わりに、ともかく「自分の手でどうにかしよう」とまで思っている人も少ないはずである。そうするだけの意味、メリットがさほどないからだ。

実はテレビの強みは、その「つまらなさ」にある。筆者はBS(デジタルではないが)とCSの両方を入れている。当初は、すべてではないが、従来のテレビに比べ、面白く、熱心に見られる番組が多いことに感激し、「もう地上波を見ることはないかもしれない」とまで思った。だが、今、筆者が見ているのは95%地上波である。その理由は、よくよく自分の胸に聞いてみると「地上波は面白くないから」である。

必死に見てしまい、感動して涙まで流すような面白い番組も中にはある。数としては結構多い。しかし、テレビのスイッチを入れるのは、そういう番組があることを期待して、ではない(あればうれしいが)。ただ、「今、何もしたくないから」である。そういう時、あまりに面白い番組は疲れるのである。さすがにあまりにくだらないものには腹も立つが、ほどほどに「どうでもいい」番組もないと困る。

人が積極的で、能動的でいられる時間というのは驚くほど短い。テレビ以外のメディアで情報を取り入れるには、少なからず積極的、能動的である必要がある。だから、別に本人が知りたがってもいない情報を強制的に伝えるには、今後もやはり漫然と見流せるテレビを使うのが最も有効であり続けるだろう。Webサイトの広告はますます増えていくに違いない。そして、傘も、たとえ気象が自由に変えられるようになっても使い続けられるに違いない。

2001年4月号


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