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雑誌「コンピュートピア(コンピュータ・エージ社刊)」掲載コラム |
〜#2 機械翻訳は実現できるか?〜
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筆者は、このコラムの冒頭にもあるように、「翻訳家」と名乗っている。もちろん、これは単なる肩書きであって、たまたま主たる収入源が翻訳という仕事であるということに過ぎないわけだが、一応、一般の人よりは翻訳というものに強い関心を持っているということは間違いない。というわけで、今回は翻訳の話...。 翻訳という仕事をしていれば、おそらく誰もが気にしているのが、「機械翻訳」である。自動改札機の出現で切符にハサミを入れる人がいらなくなったように、テープレコーダーの普及でバスの車掌がいらなくなったように、機械翻訳のおかげで仕事にあぶれるのではないか、そう心配するのは当然である。ドラえもんの「翻訳コンニャク」のようなものができてしまった日には、翻訳家全員が路頭に迷うしかないだろう。本音を言えば、研究を妨害したいくらいだが、公共の利益を考えると、そうもいかない。 翻訳にあまり詳しくない人の中には、ここまで読んで「でも、すでに自動翻訳ソフトがいくらでも世の中に出回っているではないか。そんな心配は手遅れでは?」と思った人もいるだろう。しかし、実は我々にとって好都合なことに、現存の翻訳ソフトは、役に立たないとは言わないが、「翻訳コンニャク」とはかけ離れたものなのである。嘘だと思うなら、次の訳文を読んで意味がわかるかどうか確認してみて欲しい。 「データは物理的な保管場所を供給することを避けて、そして物理的な情報を使うことによって課された限界を減少させるために、連合した論理的なモデルを通して呼び出される(Data is accessed through the associated logical model to avoid supplying physical storage locations and to reduce the limitations imposed by using physical information.)。」 英語の参考書に書いてあることをほぼ理解できたように思えた高校生の頃、筆者は、「これで英語で話されていること、書いてあることはすべてわかるに違いない。単語は知らないものもたくさんあるが、辞書で調べれば大丈夫。何も怖いモノなどない」と思い込んでしまった。当然、翻訳など、ごく簡単な仕事に思えた。しかし、実際に翻訳を仕事にしてみてわかったのは、「翻訳は実は厳密に言えば不可能だ」ということだ。 その理由は、言語というものの特性にある。スイスの有名な言語学者ソシュールが言ったように、言語というのは実に恣意的なものである。たとえば、川などに流れていたり、海を満たしていたり、蛇口をひねると出てきたりする無色透明の液体のことを日本語では「みず」というが、英語では「water」という。まったく同じものが国によって、民族によって何百、何千とおりにも違った呼び方をされるのである。どの名前も、それを使う必然性はない。たまたまそう名付けられただけである。モノや概念と言葉の結び付きというのはその程度のものだ。 また、その結び付きには、個人差まである。筆者は、幼少の頃から、なぜかはまったくわからないが「ボーナス」という言葉を聞くと軽自動車の走っている様子を思い浮かべてしまう。ボーナスという言葉の一般的な意味を知らないわけではないが、そうなのだから仕方がない。これは極端な例だと思うが、同じようなおかしな連想は、程度の差こそあれ、どの言葉についても一人一人あるに違いない。つまり、私たちは何気なく気軽にしゃべったり文章を書いたりしているようでいながら、このような個人的で多様な連想をそこに反映させているということだ。人の数だけ言葉の意味があると言い換えても良いだろう。 こう考えると、文章を正確に翻訳をするためには、まず、文化的な背景も生い立ちも、すべてが自分と異なっている人が何を考え、何を思ってそれを書いたかがわからなければならないということになる。文章を書いた人間と訳者との間で言葉の解釈にズレがあってはダメなのである。同じ人間どうしですらこうなのだから、ましてや機械には当分無理だろう。筆者の生きている間くらいは、安泰かもしれない。 とはいえ、不安もある。仮に完璧な翻訳ができなくても、多くの人が「このくらいできていればいい。別に人間にやってもらわなくてもいい」と思うようになれば、機械翻訳が一般的になる可能性はあるからだ。覚悟はある程度必要かな、とも思っている。 2001年2月号 |
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キライなことを進んでやる人はあまりいない。キライなものを作る人も使う人もあまりいない。そのはずだ。では、コンピュータはどうか。これだけコンピュータがすごい勢いで増えていて、それを使う人も増えているのだから、コンピュータが好きな人もさぞかし多いのだろう。と思ったら、意外にもコンピュータは嫌われ者だ。TVや新聞などでは「リストラ、ITでお疲れのお父さんに」という言葉が聞かれるほどだ。なんと、あの憎むべきリストラと同列にされているのである。いったいどういうわけだ。コンピュータを作り、増やしているのも人間、それを憎んでいるのも人間。わざわざ自分を不幸にすることを頑張ってやるのが人間の習性だとしたら、まったく奇妙な動物という他はない。 「人工」、「合成」、「デジタル」という言葉と、「天然」、「自然」、「アナログ」という言葉を並べてみた時、あなたはどちらに好感を抱くだろうか。後者と答える人が多いに違いない。筆者もその一人だ。でも、人間の歴史では、「天然」、「自然」、「アナログ」が減り、「人工」、「合成」、「デジタル」が増えるという傾向にある。そもそも後者の言葉たちは、前者がなければ存在しなかったものである。このことは、これらの言葉で表される事物が、歴史のはじめから世界に存在していて、別に人間が好きで選び取ったものではないということを意味する。そして、もしはじめからふんだんに存在していたものが至極気に入っていたのだとしたら、新たに「人工」、「合成」、「デジタル」などといういうものをわざわざ産みだそうとしただろうか。 やっぱり大自然の中の生活が最高!と言ってキャンプなどに出かける人がいる。合成着色料は心配だけど、天然の着色料なら安心かもしれないとついて思ってしまう人がいる。ワープロよりやっぱり万年筆、CDよりLPという人も少なくない。だからと言って、キャンプ場に住み着いて帰ってこないという人はあまりいない。だいいち、キャンプ場というのは、飯ごう炊さんの設備はあるわ、場合によっては水道などもあったりして、「果たしてこれで自然なのか?」という感は否めない。天然着色料にしたって、「着色」というのがもう、「人工」の技である。万年筆は羽ペンよりはデジタルだろう。 茨木のり子さんの詩に、「時代おくれ」というのがある。彼女はこの詩で「車がない、ワープロがない、ビデオデッキがない、ファックスがない、パソコン、インターネット、みたこともない」とうたっている。もちろん、この詩の趣旨がそんなところにないことを承知の上で言えば、かくいう茨木さんもしっかり「旧式の黒いダイアル」の電話を使ってはいるのである。彼女とて、時代の文明から相対的に「おくれている」ことを選びとっただけで、文明そのものを拒否している(あるいは、できている)わけではない。 人間は便利が本当は大好きなのである。ただ、どういうわけか、それをおおっぴらに表に出すことをよしとはしない。人間だけではない。都会の鳥はビニールを使って巣を作るそうだ。その方が暖かくて丈夫だということを知っているらしい。彼らの方が正直だ。不便が良かった、昔が良かったと言うのは、ウソとは思わないが、現実逃避の部分も多いのではないか。今のところ、誰の目の前にも現実の問題というのはある。たとえば、筆者はパソコンで文章を書きすぎて肩が岩のように固くなっている。これを、パソコンのせいにするのは易しい。パソコンなんてものがあるからいけない、ないころの方がよかったのではないか...と思うことがないではない。では、パソコンがなかったらどうだというのか。万年筆で文章を書いたら疲れないとでも言うのか。その前に、パソコンもないような昔には、筆者のような者が文章を書いて生活することができなかったかもしれないのである。食えないことに比べれば、肩がこるくらいなんだ、ということも言える。パソコンなんてなければ、というのは、結局、「肩がこる」という現実の問題について愚痴を言っているのに過ぎない。 人間は正しいことをするとは限らないが、少なくとも自分にとって快いことをする。コンピュータが普及したのも、突き詰めれば、コンピュータを好きな人が多いからだ。「肩がこる」というようなマイナス面ばかりをとらえて八つ当たりをするのはやめてここらで自分に正直になったらどうだろう。これまでより少しは幸せな気分になると思うが、どうだろうか。 2000年12月号 |
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