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〜#16 不景気の本当の怖さ〜

不景気はイヤだ。「不景気だからわかることもある」、「贅沢をやめてナチュラルな生活をすればいい」、「不景気こそ飛躍のチャンス」などと、ポジティブ・シンキングだか何だかしらないが、そういうことを言う人も多い。しかし、やはりイヤなものはイヤだ。別に「不景気になると儲からないから」ではない。それを言えば、別に景気がいいときでも儲かってなどいなかった。自分のふところ具合はいつもさほど変わらないのである。「低値安定」というところか。それに自分一人が儲かるかどうか、という話なら、「ポジティブ」な人たちの言うとおり、不景気でもチャンスがなくはないだろう。だから、そういうことで不景気を嫌がっているわけではないのだ。

では、何がイヤなのかというと、「不景気になると、無駄なものが減る」ということだ。企業の売上が落ち、効率を上げなければ今までどおりの利益が得られないのだから、無駄なものはどんどん削られ、より役に立つもの、意味のあるものに置き換えられていく。色々な事業に進出していた企業は、不採算部門を切り捨て、得意分野に集中する、ということを始める。他に比べて集客力のない店舗は閉められ、より集客のできそうな地域に移転される。直接収益につながる仕事していなかった管理職は辞めさせられたり、降格させられたりする。そして、ただ長い間勤めていたからといって支払われていた高い給料はカットされ、「どのくらい業績に貢献したか」で給料が支払われるようになる。

こうした動きは、「望ましいこと」、「あるべき姿」として語られることが多い。エコノミストと呼ばれる人たちも「好景気(あるいは高度成長)でおかしなことになっていたけど、これが当たり前なんですよ」ということ言う。現に、日産なども、まず無駄を減らして蘇ったらしいから、その意見は正しいのだろう。しかし、無駄のない「正しいもの」ばかりの社会が生きていて面白いかどうかは別問題である。

「面白さ」にはある程度の驚きが必要である。正しいものには安心はあっても驚きはない。駅ビルの中にデパートがある。駅は人が大勢集まるのだから、商売には向いている。当たり前の話である。皆、「便利」と思うかもしれないが、まったく驚きはしないだろう。ひょっとすると便利とも思わないかもしれない。ところが、人通りの少ない寂れた街をぼーっと歩いていた時、突如としてデパートが目の前に現れたとしたらどうだろう。きっと驚くに違いない。中はどうなっているのか、少なからず興味をひかれるはずである。何も買うものはないかもしれないが、しばらくの間退屈な思いをしないことだけは間違いない。

筆者は駅から自宅まで、バスを使うことが多い。たいていの場合、同じ経路をたどり、同じ終点を目指して走るバスに乗る。しかし、ごくまれに経路も終点もふだんとまったく異なるにもかかわらず、筆者の最寄のバス停には止まる、というバスに行き当たることがある。時刻表を見ると1日に4〜5本しかこない珍しいバスだということがわかる。乗り間違えて往生する客が多いせいか、客を乗せるのが商売のはずの運転手が、乗ろうとする客一人一人に「乗っても大丈夫か」と念を押す。大部分の人は念を押されてあわてて乗るのをやめるのだ。このバスに乗ると、いつもと違う道をほとんど貸し切りの状態で走ることになる。別に何ということもない出来事だが、こういう時は、ふと「トクをした」と思う。こういうことがいつまで続くのかはわからない。だが、やはり不景気なのだから、近いうちに誰も乗らないバス路線など維持していけなくなるだろう。

はじめから非効率なことしようとする人間はまずいない。削減される店舗にしろ、切り捨てられる不採算部門にしろ、当初は何か作られる理由があったのだろうし、ほとんどの場合、それが存在することの方が「効率的」だったのだろう。ただ、時代が移り変わるうちに、効率的だったものが非効率になった。そして、昔のことを知らない人間にとっては「なぜ、ここにこんなものが」と驚かれるようになってしまった...「無駄」と思えるものの多くは、おそらくそうして生まれたに違いない。いわば「歴史」の産物である。そして、この歴史の産物は企業、街、あるいは国の「個性」となるものだ。個性と言っても、最近の「個性尊重教育」のようなものではない。作り出した当人は「個性」を作ろうなどとはいささかも考えていなかったのである。ただ、生き延びるために活動した結果としてそうなっただけだ。にわかごしらえの底の浅い個性ではなく、切れば血の出るような、地に足のついた個性である。

今行われている「効率化」も、生き延びるための活動なのだから、非難はできない。これからも「歴史の産物」は次々に生まれてくるのかもしれない。しかし、せっかく現に存在しているものをみすみすなくしてしまうのもあまりにももったいないのではないだろうか。一つ言えるのは、「これは無駄だ」という理由でいちいち何もかも壊していたら、イタリアの斜めにかしいだ塔も、エジプトの巨大な石の墓も、中国の恐ろしく長い城壁も残ってはいないということだ。どれも今では見世物になる以外の何にも役には立っていない。とはいえ、たとえ飯が腹いっぱい食えたとしても、こうした大いなる無駄が何にもないところに生きていたいと思う人がどのくらいいるのか疑問である。食べ物以外にどうしても必要なものはあまりないが、楽しみが一切なくても生きられるほど人間は強靭ではない。何も楽しみがなければ、仕方なく、はじめから無事終点に着くとわかっているジェットコースターに乗ったり、はじめからハリボテとわかっているサメに襲われたりするのかもしれないが、それでは淋しすぎる。それに、自然に生まれた面白いものを壊して、わざわざそんなものを作ることこそ、本当は無駄なのではないか。「心の豊かさは金では買えない」というが、怪しいものだ。どうやら「貧すれば鈍す」という方が当たっているようだ。

2003年1月号

 

〜#15 付加価値は企業にとっての「価値」?〜

よく行っていたラーメン屋がなくなった。そのラーメン屋ではいつもチャーハンとギョーザを食べていた。チャーハンとギョーザ3個で800円。とびきりうまいということはないが、少なくとも、近くを通りかかれば「そうだ。食べていこう」と思い立つのだからまずくはなかったのである。でも、普段はその店の存在をすっかり忘れている。何の特徴もない店なのだ。名前すら覚えていない。そういう店だからこそかもしれないが、いつもすいていた。思い返してみれば、周囲の店がかなり混んでいるときでさえひっそりとしていたのである。なくなっても当然なのだろう。

そのラーメン屋の代わりに何ができたかというと、やはりラーメン屋だ。だが、元の店に比べると趣が相当に違っている。まず第一に、店頭にも店の中にも文字が多い。店に「コンセプト」というか、「テーマ」というか、ともかく何か訴えたいことがたくさんあるらしい。大量の文字を逐一読んでいるほどヒマではないのだが、目に飛び込んでくる文字を見ているだけでも、どうやら「自然志向」、「健康にいい」というのが主張の根本にあるということはわかった。しかし、それは筆者にはどうでもいいことだった。その時筆者が考えていたのは「前の店で食べていたチャーハンとギョーザにできるだけ近いものはないか」ということだけだったのである。数ページにわたるメニュー(やはり文字でぎっしり埋め尽くされている)からは、「ギョーザ」の文字は発見できなかったが、「カニ玉チャーハン」なるものは見つけることができた。店のオススメメニューであるという。チャーハンが食べられるのならばありがたい。しかもオススメならばきっとうまいに違いない。早速店員に「カニ玉チャーハンをください」と告げた。

その後、相当な時間を経て、チャーハンは届けられたのだが、食べてみるとさすがにオススメだけあって、おいしい。具体的にどこがどう健康に良いのかはわからなかったが、おいしいのだから別にかまわない。ただ、1つ、大きな問題があった。コンセプトのある店らしく皿がおしゃれなのはいいのだが、その皿が「真っ平ら」だったのである。考えてもみて欲しい。チャーハンのご飯は(おいしいものは特に)パラパラになっているのである。食べにくいことこの上ない。少し油断するとご飯が皿から落ちそうになる。あれほど神経を使ってチャーハンを食べたのは初めてだった。

これからのビジネスは高付加価値でなければならない、と言われる。よそと同じことをしているだけでは、単に価格の競争になり、値引き合戦のあげく、体力のないところは消えていく。そうした事態を招かないようにするには、商品、サービスに独自の付加価値をつけ、値崩れを防ぐしかない。確かに道理である。前述のラーメン屋の文字の洪水は、そうした「付加価値」を顧客に知らせようと懸命になった結果なのだろう。なくなってしまったほうのラーメン屋にはそういうものはなかった。ただ普通に食べ物を出し、お金を受け取る、ということを繰り返していただけである。店の構えもごくごく当たり前のものだった。いわば「付加価値ゼロ」のビジネスをしていたわけだ。その結果、消え去ってしまうことになった。おそらく、新しい店はそれよりも善戦をするだろう。

問題は、商品やサービスに付加された価値を必要としない人も意外に多いということである。また、新たに価値を付加することによって、商品やサービスに本来備わっていた価値が失われることがあるというのも問題だ。たとえば、形状記憶シャツは高付加価値商品の1つだが、アイロンがけが得意な人、苦にならない人にとって、付加された価値はあまり意味がない。それに、どうしても普通のシャツに比べて肌触りがゴワゴワしてしまう、という弱点もある。つまり、本来持っていた価値が多少失われているわけだ。

付加価値が不要であれば、付加価値のない商品を選べば何も問題はなさそうだが、ことはそう単純ではない。何しろ、商品を提供する側は、付加価値がなければ生き残れない時代なのである。形状記憶シャツなどを作っていた方が、普通のシャツを作っているより売上も利幅も伸びるとなれば、多くの業者が、普通のシャツより、「高付加価値シャツ」に力を入れるようになるだろう。他の商品に関しても同じようなことが起きる。要、不要ということだけを言えば、普通の商品を必要としている人は多いはずだが、そういう人を相手に商売をしていても業績は伸ばせない。「特に何も買いたくない人」を取り込まなければ、飛躍は見込めないのである。「持っているシャツが皆破れたので、今すぐシャツを買わなければならない」という人は切実にシャツを欲しているが、そういう人の数が、商売になるほど多いとは思えない。やはり「すぐにシャツが必要というわけではないけれど、自分の持っているものと違う特徴があれば買うかもしれない」という人の方が多いのである。かくして、やがて各商店の売り場は、「切実なニーズのない人をターゲットにした、特に必要性のない商品」で埋め尽くされることになるのだ。何の変哲もないラーメン屋がなくなって、その代わりに「コンセプトのある」ラーメン屋が開店した、というのも同様の動きであると言える。

こういう状況では、何かがどうしても必要になって買い物をする時に不快な思いをすることになる。以前、外出時に突然、石鹸が切れていたことに気付き、とにかく石鹸を買おうと、手近な店に入ったことがある。すると驚いたことに、ごく普通の石鹸がまったく見あたらないのだ。薬効成分の入った石鹸、地球にやさしい石鹸などしか置いていない。結局、1個800円もする、「肌にやさしい」石鹸を買う羽目になってしまった。

商売はボランティアではないのだから、儲かりもしないのに「普通のものを売ってくれ」とはなかなか言えない。それで立ち行かなくなっても何の責任もとれないからである。ただ、競争に勝ち抜くための企業の創意工夫、努力が、世の中を住み良くするのに役立つとは限らない、というのは確かなようだ。

2002年12月号


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