★夏目大のブログ「横浜翻訳生活」ができました!
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〜せいうち訳者のシュールな日乗(常?)〜

ほとんど横浜関内駅周辺の半径2kmで起こる日常生活の些末時をとりとめもなく書いていくページです。気が向いたら書評、レコード評などもやります(ゴタクを並べている日もありますが...)。よく読むと横浜観光案内、翻訳教室にもなっている、役に立たないようで役に立つ(?)わけのわからない内容です。

1999年2月2日〜8月25日

8月25日

 新居に移って3週間ほどになるが、その間ずっとお客に来ているような、ここが自分のうちだと実感できない気分が続いていた。もしかすると、ずっとこのままかもしれない、そんな不安に襲われたりもしていた。

 しかし、ちょっと寝不足状態だった今晩、ぼーっと「ニュース・ステーション」など見ていたとき、一瞬にして周囲の景色から薄いベールを剥ぐように違和感が綺麗になくなったのだ。「そうだ、ここがオレのうちなんだな」そう心の底から思えたのである。引っ越しはもちろん初めてではないが(竹内まりやの「不思議なピーチパイ」みたいなセリフ)、こんなふうに、新しい部屋に自分が馴染んだ瞬間を特定できたという例はない。目に移る像に何ら変化はないのに、すべてがこれまでと違って見えるのが奇妙だ。

 「このときをずっと覚えておこう」そう考えて時計を見ると11時11分だった。なぜ?ときかれても答える自信はないが、「やっぱりな...」と思った。

 

8月22日

 急に資料が必要になったので、引っ越しで少し遠くなってしまった有隣堂に自転車で(ギア比を最高に上げて)急行した。

 この店の前ではよくストリートパフォーマンスをやっているのだが、今日は「想い出のフォーク全集」と銘打って、40代くらいの人がギター一本で歌っていた。財津和夫と南こうせつを足して2で割ったような声で、結構雰囲気が出ている(おそらく、そういう声が出るよう長年訓練したのだと思うが)。リクエストを受け付けているらしく、ギターケースにはリストが置いてあった。

 こういう時、ぼくは必ず何かリクエストすることにしている(一言居士だからね。ちょっと違うか...)。目を皿のようにしてリストを見ていると、「なごり雪」、「結婚しようよ」など「まあ、あるでしょう」という曲に混じって「悲しくてやりきれない」という文字があるのに気づいた。

 「もう、次の歌、決めてしまったかな...」と少し逡巡したが、「この曲をイセザキの街に流したい」という気持ちには勝てず、歌ってもらうことにした。ぼくには、今、悲しいことは特に何もないのだが、やはり何か胸に響く。良い曲というのは、自分の現状とか、経験とかそういうものとは関係なしに感動を呼ぶものだと思う。

 歌が終わった後で、そばにいた女の子3人組が、「これ、誰の歌なんですか」と聴いてきた。どうやら気に入ったらしい。ぼくは即答した。

「フォーク・クルセイダーズですよ」

 

8月18日

 何を思ったか、突然自転車で急な坂を上り、港の見える丘公園に行った。近代文学館に久しぶりに寄ることにする。しかし、暑い! 昨日はアイスコーヒーをガブ飲みすると辛いくらいに涼しかったのに、今日は何だ。

 着いてみると近代文学館はお休みだった。付属の喫茶店もお休み。途中からアイスコーヒーで頭が一杯だったので、ショックで倒れる寸前。仕方がないので、隣の大佛次郎記念館(すみません、大佛さん)に入ることにする。ここの喫茶店は「霧笛」という名前なのだが、まさに気分は「霧笛がオレを呼んでいる」である。

 メニューを見て愕然。アイスコーヒーが600円もする。ドトールなら同じものが180円である。何か納得いかないが、BGMのエリック・サティも良かったし、とても静謐で快適だったので許そう。

 すっかり感化されたぼくは、有隣堂で大佛次郎のエッセイを買おうと思ったのだが、良いのが見つからない。その代わりに、内田百けん(漢字が出ない)の「御馳走帖」という本が目にとまったので耐え切れずに買ってしまった。食い意地が張っていますからね。だいたい暑くても食欲だけはまったく落ちない。腹ばかり減らしている。いやな奴だね。

 

8月17日

 引っ越したために親しく付き合うことになった本牧エリア(もちろん、これまでどおりイセザキ通いも続けるが...)に図書館を発見した。ぼくは借りた本はまず絶対と言ってほど読めないので、本当は図書館にさほど用事はないのだが、近くにあると無性に嬉しい。

 中に入ったところで本の数に圧倒されるだけで、読む本すら決められないのに、ただ、そこにいるだけで何とも言えない幸福感に包まれる。新しい街が「自分の街」になっていく過程というのはこういうものだろうか。

 

8月15日

 関内マリナードでテンプラを食っていたら、近くに座るご老人二人の会話が聞こえてきた。

 「今日が何の日か、最近の若い人は知らないのよね」

「終戦って言っても、『終戦』て何?って聞かれちゃうもんなあ」

少々ギクリとした。ぼくも「若い人」とはもう言えないのに、うっかり忘れるところだったからだ。

 と、こういう書き出しだが、別に新聞みたいに「戦争体験を風化させてはならない」とか何とかそういうことを書くつもりはない。考えてみると、ものすごい勢いで環境は変わっているよなあ、と思っただけだ。

 ぼくが子供の頃、スパゲティと言えばナポリタンとミートソースしかなかった。オリーブ・オイルなんて、ポパイの彼女のことだと思っていた。いまだに「パスタ」なんて言葉がちょっとコソバユイ。「ペペロンチーノ」なんて注文するのも少し照れてしまう(好きなんだけど〜チャチャチャ、照れてしまうのさ。古い!)。

 ウーロン茶もなかった。最初はいちいち腹をこわしていた。飲んでも平気になったのはごく最近だ。コンビニもなかった。ファーストフードもミスタードーナッツくらいしかなかった。ハーゲンダッツもサーティーワンもなかった。アイスクリームと言えば名糖バニラエイトかロッテ・イタリアーノ。ロッテ・イタリアーノはまだあるのだろうか。あれを食べるときは本当にワクワクした。チョコレートとバニラの配分を自分で一口一口決められるなんて、50円とは思えないゼイタク。

 スキューバ・ダイビングなんてやる人いなかった。スキーやったことある人もほとんどいなかった。飛行機に乗ったことのない人なんて珍しくもない。外国と言えばアメリカ。そのアメリカに一生のうち一度でも行けると信じている人は、おそらくほとんどいなかった。

 書き出せば切りがないけど、これ、たったの20年ちょっと昔のこと。今はこれが当たり前だと思っているけど、20年後はどうだろうか。

 関係ないけど、件のご老人二人、どちらも大正生まれ、しかも、横浜市中区出身のバリバリの浜っこらしい。くーっ!カッコいいねえ。思わず(74才くらいかな)と計算していたら、「私ももう、74で...」と自分で言い始めたには驚いた。

 

8月14日

 いやはや、また長々と間を空けてしまった。「どうなっているのですか?」という問い合わせを何件かもらった。本当にありがたいことだ。書きたいことは色々あるのだが、どうも実際に書けるだけの気持ちのゆとりというものを欠いていたようだ。「うまく書こう」などと、ちょっと色気を出してしまったのがいけなかったのかもしれない。そんな、急にうまくなるわけはないんだから、と開き直ることにする。

 先週の土曜日に引っ越しをした。とうとう海のそばに住めるようになった。引っ越しが決定したときはすっかり舞い上がってしまい、新しい名刺に「海辺の翻訳事務所」と刷ってみようか...などと考えたりもした。結局、名刺のデザインを頼んでいるT氏に一瞬で却下されただけだったが(ちょっと頭が冷えた今は、それで正解だと思う)。

 「オレは絶対にここ(横浜)を動かないぞ!」と決意を新たにしている。誰も動けとは言っていないけど、とにかく強くそう思う。なぜかはわからない。どういう理由でここが良いのかわからない、ということが実は本当に愛着を持っているということの証明ではないか、と思っている。

 どうでもいいことではあるけれども、「ライフスタイル」というような言葉で呼ばれることは、こういう些細なことの積み重ねなのではないだろうか。

 相変わらず無内容ですが、みなさん、また宜しくお願いいたします。

 

6月22日

 「命知らず」というほどではないが、またまた一見、度胸のありそうな人を見た。

 久しぶりに有隣堂ランドマーク店(いつも行っているのは本店)に行った。「別宮先生ショック(6月18日を参照)」の余波もあり、今日はじっくり洋書のコーナーを見た。欲しい本は例によってたくさんあるが、どれも高い!

 ため息をついていると、少し離れたところで携帯電話のけたたましいベルの音が鳴り響いた。別にぼくはエチケットを云々できるほどの常識人ではないので、これだけなら特にどうということもない。しかし、その後がすごかった。

 電話に出た女の子は、静かな本屋で携帯を使うことにまったく抵抗のない様子で話し始め、衝撃の一言を放った。「うん、今、有隣堂。しばらく立ち読みしていくから....」絶対レジには聞こえていたと思う。

 ええ根性しとるなー。ぼくなんて、買う気半分の本をしばらく眺めるだけでもちょっと後ろめたいような気分になるのに。絶対にまねできない。あれくらい心臓強かったら、もっと出世する...とは思わないけどね。

 

6月21日

 命知らずな人というのは結構いる。だが、その人に本当に度胸があるのか、それとも何もわかっていないだけなのかは案外判断の難しいところだ。

 横浜駅からバスに乗って帰り道、関内駅近くの羽衣町のバス停で、二人のオッチャンが乗り込んできた。ほどなくバスは走り出したのだが、またすぐに赤信号に引っかかって止まった。

 急ブレーキでかなり揺れたので少し驚いたのだろう。さっきのオッチャンの一人が思わず「何だー!」と叫んだ。すると、もう一人のオッチャンが「運転手の名前見てやろうよ」と応じた。そしてその後は「ひどい運転手だまったく...」とかなんとか、どう考えても運転手本人に聞こえるくらいの声での悪口合戦である。

 ぼくはその会話を聞きながら気が気ではなかった。何しろ、バスに乗っているのだから、自分の命は完全に運転手に預けられているのだ。つまり、この状況で運転手の悪口を言うということは、たとえはちょっと悪いけど、自分の頭にピストルを突きつけている人に「バーカ!」というのとあまり変わらないことなのである。

 自らの置かれている立場がわかっているのだろうか、オッチャンたちは。どうみても、本当に度胸があるとは思えない。何も考えていないんじゃないか。命というのはいつ危険にさらされるかわからない。こんなことで死にたくないよ、まったく。

 

6月18日

 「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざは、「噂をすれば影」につぐ、日本のことわざの白眉だと思う。何がどこでどう影響するかわからないから、よくよく考えると怖くて何もできない。

 今、有名な別宮貞徳先生の「誤訳・迷訳、欠陥翻訳」という本を読んでいる。自分が翻訳に対して先生と非常に近い考え方をしていたことがわかり(実力は比べることすら恐れ多いが...)、また、中で取り上げられている誤訳も、「自分なら仮に間違うとしても、こういう間違いだけはしないな」というものばかりで安心した。

 というわけで、翻訳商売をやる上ではちょっとした自信につながって良かったのだが、悪影響が思わぬところに出た。翻訳本が不安で読めないのである。苦労して読んでも、実は間違った情報を得ていた、ということになったらどうしよう、と思うからだ。もう、かくなる上は日本語で持っている本も、元が英語なら全部原書買ってやろうか...という気になってきた。でも、日本の本屋ではなかなか全部、というわけにはいかない。しゃあない、アマゾンコムに頼るか。

 そう、別宮先生が本を書いたときには予想もしなかったはずの、「誤訳を知ればアマゾンが儲かる」という事態が起きてしまったのである。

 

6月17日

 もう先週の話だが、6/12にイッセー尾形が有隣堂に来た。4、5日間にわたってイッセー氏のイラスト展をやっていたのだが、そのメインイベントとしてサイン会が開かれたのだ。ぼくは、「地下鉄」というネタの「だいたい運営がズサンなんだよ、営団地下鉄は」というセリフでノックアウトされて以来の大ファンなので、当然、万難を排して出かけていった。

 土曜日のイセザキの人混みをかきわけかきわけようやく店に入ると、「イッセー尾形氏サイン会2:00〜3:00/ミニライブ入場無料」なんて書いてある。ずるいぞ!サイン会だけだと思ったからゆっくり来たのに....。そういうことははよ言わんかい!

 大盛況の会場ではすでに、なぜかヘヴィメタ風のエレキギターを抱えたイッセー氏と、松葉杖が痛々しい森田雄三氏が何やらしゃべっている。というか、しゃべるのは専ら森田氏。このコンビは役者より演出家の方がしゃべるのだ。

 森田氏には悪いが、「あー、イッセー尾形、もう少ししゃべらないかな...」と思って聞いていたら、その気持ちが通じたか、イッセー氏は有隣堂の人が突然持ってきたフォークギター(どうみても、音楽本コーナーの棚に何年も置いてあったギター。ほこりくらい払えよな!)で、ストリートミュージシャンよろしく弾き語りを始めた。

 いや〜これだけでもメッケもの...と思っていたら、歌で気持ちがノったのか、ついにはネタまで披露してくれた。20年くらい前の中学の英語の授業、という設定の演目。いかにも善人、という風情の中年教師が、たわいのないダジャレで生徒をムリヤリ笑わせながら、授業を進めていく、というもの。イッセー氏が演じるのは教師なのに、どんな顔、性格の生徒がどんな様子でそれを聞いているかが手に取るようにわかるのが不思議。「みんな〜起きてるか〜.....。教頭先生、修学旅行は京都でしたな? ほら、目が覚めただろう」というくだりでは「こういうの、あったあった...(20年前中学生だった私ですから)」と首を90度縦に振ってしまった。

 ともかく、チケットがなかなか手に入らないと言われるライブを、至近距離でタダでみた!という満足感に包まれた素晴らしい日だった(サインもしっかりもらった)。というわけで、ファンではない人には何にも面白くないレポートでした!

 

6月16日

 長々とさぼってしまった。ほぼ一ヶ月ぶりである。「もうやめたんかいな」と思ってた人もいるだろうが、そう簡単にやめるわけにはいかない。

 近頃切実に「速読力」が欲しい。よく本屋なんかでもらう「速読が身に付く!」なんていうパンフレットに、「本当かなあ」と思いながらも惹かれてしまう。ともかく、読んでいない本がとてつもない数になっているのである。

 英語教育の権威、松本道広先生によると、速読するためには「100%理解しようとしてはだめ」らしいが、ぼくはだいたい性格的に、「100%か0%か」というタイプだから、「まあ70%理解できれば...」なんて開き直りかたができない。たまに快調に読み進んでいても、時折うっかり誤解していた箇所を見つけようものなら、すべて誤解だったのかもしれないと一気に不安になってしまう。しかし、思えば、今の仕事をはじめる前は速読には自信があったのだ。仕事のときに持つ「間違いがあってはいけない」という意識が、単に楽しみで本を読んでいるときにも影響を与えているのだろうか。

 どうせ人間の頭なんて、明日になったらかなりの割合を忘れてしまうようにできてるんだから、そんなに躍起にならなくても...と思うが、こればっかりはどうしようもない。

 

5月18日

 横浜そごうに行った。横浜駅が好きではないので、そごうにも滅多に行かないのだが、魔が差すということはあって、ごくたまに足が向く。行っても「来てよかった」と思うことはほとんどないが....。

 紳士服売場を歩いていたら、いつの間にかPaul Smithのコーナーに来ていた。高いので、まったく買うつもりはないが、ちょっと覗いてみる。また新しいTシャツが出ている。門外漢のぼくにデザインの善し悪しはまったくわからないが、Paul Smithの服には、何か人間の正の部分も負の部分もどちらも楽しんでしまおうというある種の悪食のとも言うべき姿勢が感じられる。単純にカッコいいというのは違う。取り澄ましているのに強引、という非常に矛盾したエネルギーを放出しているのだ。まあ、一言にまとめれば、とにかく惹きつけられるということ。「いいな、これ。欲しいな...」と思っていると、近くにいた女が「あっこれかわいいよ、うん、かわいいかわいい」とのたまった。

 「かわいいって言うなー!日本語では、こういうものをかわいいとは言わーん!他に言葉知らんのか。ボキャブラリーのない奴め」と口に出して言いたいところをグッとこらえたが、もうすっかり興が醒めてしまい、そのTシャツを欲しいと思ったことすら恥ずかしいような気分で足早にその場を立ち去った。

 人間、知らない間にどこで誰に迷惑をかけているかわからないものだ。ちと気を付けよう。

 

5月14日

 自分の性格というものはなかなかわからない。というより、絶対にわからないといった方が正確だろう。ただし、ふとしたきっかけで、その断片が極めてはっきりと浮き彫りになることはある。

 何日か前の夜、あかりを消して床に入ったとき、突然「オレもいつかは死んで、存在しなくなるのだ」という想念が頭に浮かんだ。最近、祖母が亡くなったりしたので、人の生死について無意識のうちに考えていたのかもしれない。自分の死をこれほど切実なものとして感じたことはなかったので、体験したことのない種類の恐怖が全身を貫いた。と同時に、思わず自分で呆れてしまうような言葉が心の中に反射的に浮かんだ。その言葉とは、「こんなイイ奴が死ぬなんて、もったいない」というものだ。

 こういう奴のことを我が国で何と呼ぶか、皆さんはもうおわかりだろう。そう、ぼくは正真正銘の「うぬぼれ屋」だったのである。どうやらこれだけは間違いないらしい。

 

5月13日

 近い将来のことを予測する場合、人は無意識のうちに比例のグラフを思い描いているのではないだろうか。昨日がこうで、今日がこうだから、明日はきっとこうに違いない。そう考えて、安心したり、落胆したりしている。比例のグラフを使った思考ばかりしていると、非常に困ったことも起きない代わりに、あっと驚く素晴らしいことも起きないような気がする。でも、現実はそうではない。皆、急激な変化に驚いてばかりいるが、事態の変化というのは本当は急にしか起こらない(ように見える)。

 先週はクラリネットのレッスンが休みだった。こういうときは、結構気がゆるんでしまいがちだ。最近どうも停滞ぎみでもあるので、少しムキになって練習してみることにした。でも、やはり相変わらず何か絞り出すような苦しげな音しか出ない。以前に書いた「おいしそうな音」はまったく鳴ってくれない。

 どうすれば良いのだ...。少し肩を落として昨日、2週間ぶりのレッスンに臨んだ。ダメだ。家での練習に輪をかけてひどい。先生も首をひねっている。いくら何でもここまでひどいはずがない....。出直しだ。とあきらめかけた気分で20分ほどが経過した。

 しかし、「船にゆられて」という練習曲(これが「ちょうちょ」にそっくり!!)を吹いたとき、今まで青息吐息だったぼくの楽器が突然楽しそうに歌い出した。できたのだ!そうだ。これがクラリネットだ。できるじゃないか。

 自分としてはまったく吹き方を変えたつもりはない。実に不思議。「どうせこんなもんさ」、「やったって大して変りゃしないよ」なんて言いたくなったときは、実はもう一頑張りなのかもしれない。

 

4月28日

 大学のとき、同じゼミに「美しいものばかり見て、暮らしたい」と言っているヤツがいた。もちろん、学食なんかでたまってダラダラしているときに突然そんなことを言ったらすごくヘンだ。月1回のゼミ報にそんなエッセイを書いていた、ということである。そいつの文章は刃物のように鋭く、読み手を否応なしに惹きつけてしまうような妖しいもので、ぼくに限らず結構たくさんの人が毎月楽しみにしていた。

 「美しいものばかり見て、暮らしたい」というフレーズを最初に目にしたときは、非常に納得させられ、「そうだよなあ、本当に美しいものばかり見ていられたら幸せだよなあ」と深くうなずいてしまったのだが、10年経って思い出してみると、まったく違った感慨が湧き上がるのに驚く。

 今は、「美しいものしかなかったら、さぞかし退屈だろう」と心の底から思う。一方にとてつもなく美しいものもあって、一方に別にどうでもいいようなものもあるから、面白いのだ。皆が思わず足を止めて見入ってしまう薔薇の花だけでなく、誰も見ていないところでひっそりしぶとく生きている雑草もたくさんあるから良いのだと思う。

 ぼくがクラリネットを始められたのも、そして、こんな駄文を書いていられるのも、こういう心境になったせいかもしれない。

 

4月24日

 「儀式」というものは、「儀式的」という言葉があるように、通常、形だけの無意味なものである。しかし、初めからそうだったわけではない。そもそも、最初から無意味だと思って始める行動などありはしないのである。意味があって始めたのだけれど、時とともに状況が変化し、意味がなくなってしまっただけなのだ。

 朝から雨が降っていて、まったく外に出る気がしない(忙しいのだから、出なければ良いのだが)。しかし、一定の時間が経てば腹が減るのはしかたがない。例によってウチの冷蔵庫は空っぽである。

 こういうときは、歩いて2分のデニーズに行くことが多い。昨日もそんなようなことを書いたが、ぼくはファミリーレストランが嫌いではない。いつだって美味しいものが食べられれば嬉しいのは確かだが、食べることについて一生懸命考えたい日もあれば、「食べることについてあまり考えたい気分ではないけれど、腹が減るからやむを得ず何か食べる」という日だってある。そんなとき、街中が「シェフが3日かけてじっく煮込んだ...」とか、「築地の市場で吟味に吟味を重ねた材料を...」とかいう店ばかりだったらさぞ疲れるだろう。いい加減な気持ちで、ただ空腹を満たす、ということができないからだ。だから、やはりファーストフードやファミリーレストランもないと困るのである。それに、ファミリーレストランの食事はまずいわけではない。そこそこいける。食べ物についてあまり考える気にならず、他のことに集中したい日に食べるのであれば、十分すぎるくらいだ。

 しかし、不満がないわけではない。デニーズの場合は、あの「いらっしゃいませ、デニーズへようこそ」というフレーズだ。一度ならいい。しかし、店に入ると顔を会わせる店員が皆、同じことを言う。うるさくて仕方がない。5回も6回も言わなくても自分がデニーズにいることくらいわかる。わからなければ、即、伊勢佐木の消防署に電話をしてもらわなければなるまい。だから、「デニーズへようこそ」という言葉はまったく形式だけで、何の意味も持っていないことになる。しかし、初めからそうであったはずはない。「ひひひ、オレの雇った店員だから好きに遣ってやる。無意味な言葉もどんどん言わせていじめてやるんだもんね」などと考える経営者がいるとは思えないからだ。そんな経営者の会社がここまで発展するとは考えにくい。絶対に何かそうさせる理由があったに違いないのだ。

 1つ考えられるのは、創立した当初、まだもちろん無名だった自分の店の名前を早く覚えてもらおうとして、店員に連呼させた、という理由だ。そして、それが功を奏して(かどうかはわからないが)店は発展し、皆に知られるようになったが、「デニーズへようこそ」という言葉だけは伝統として残ってしまい、今や、なぜ言っているのかほとんど誰も知らない、というわけ。

 この説が正しいかどうか、知っている人がいたら教えて欲しい。また、関係者の方、もしこれを読んでいたら、ファンであるが故の苦言だと思って是非善処していただきたい。

 

4月22日

 近頃、周囲で、ある日突然建物がなくなったり、店が閉められていたりということが多い。たいていは「再開発事業に伴い...云々」と書いてある。でも、後にできるのは十中八九マンションなのだ。いつから「再開発」という日本語は「マンション建設」という意味になったのだろう。

 マンションもそうだが、どうも街を小綺麗にしようという動きが多くて気になる。山下公園の使われなくなった陸橋を取り外すのはまあいいとして、ついでにテキ屋さんを追い出すとはどういう了見だろう。「山下公園に来た人はみんなジョナサンに行け」ということか(ジョナサンというファミレス自体は嫌いではないが)。

 この分だと、大阪ミナミの虹のまちが「なんばウォーク」なんてとぼけた名前に変わったように、伊勢佐木町にも「ポートタウン伊勢佐木」とか何とかアホな名前がついて、キレイキレイにされてしまうのではないかと心配である。それだけならまだいいが(よくないけど)、渋谷みたいに、道路に「スペイン坂(だっけ?)」なんて恥ずかしい名前が付きだしたら、引っ越しを考えねばなるまいか....。といってもねえ。

 

4月18日

 東京高検の偉い人が女性問題で辞めたらしい。確かにみっともない話。女と遊ぶのに税金を使っていたのだとしたら、これもすごく腹の立つ話。

 でも、もっと腹が立つのは、「勉強はよくできて優秀なんだろうけど、やっぱりその分、社会常識がねえ」というようなコメントだ。「社会常識」とは便利な言葉である。これに点数を付けられることはあまりないから、誰でも「私は社会常識がある」と思うことができる。どんなにすごい人を見ても「私はあんなに勉強(野球でも、サッカーでも、音楽でもなんでもいい)できないけど、あの人より社会常識はある」と思えば結構自分のフガイなさを正当化できるのである。勉強は点数がでるし、スポーツも勝ち負けがあるから、できるかどうかはすぐにわかる。でも、社会常識は、本当にあるかどうかは誰にも明確に判定できないのだから、これを同列に並べるのはフェアじゃない。

 そんな社会常識がナンボのもんだと言うのだろう。誤解を恐れずに言えば、ぼくは何もできない「常識人」より、女に貢いで仕事やめさせられたマヌケな秀才の方がまだマシだと思う。「あの人なら名前を見ただけで全部100点を付けてしまう」と教師に言わしめるほどの学力に匹敵する「常識」を身につけている人がいたらお目にかかりたいものだ。

 でも、「不倫が活力を高める」なんて言って非難されたヤツもアホやね。時と場所選んでもの言わんと。それに、別にオレ、則定っちゅう人、好きなわけやないから、そのへんよろしく。エエことしたとは思ってないし。そら、これだけメチャメチャされたら、怒るで、しかし(横山竄チさんかいな)。

 なんやアチコチけなしてばかりの文章になってしもた。何怒ってるんやろ。そおいうたら、あんまり関係ないけど、BOSSのCMで「いっぺんガツンと言ってやらなきゃダメよ」って言ってるおっちゃんワリと好きやね。少なくとも、隣で「アイツラにね...」なんて無難な受け答えして、ニヤニヤ笑てるニイチャンよりは100倍上等やね。

 途中で冷静さを失い、関西弁丸出しになったことを関西地方以外の方におわび申し上げます。セイウチものんびりふらふら泳いでいるばかりでは生きていけないのです。

 

4月16日

 よく考えると、しばらくクラリネットのことを書いていない。「早くも挫折か!」と思う人もいるかもしれないが、実は結構地道に練習している。いつか忘れたが、突然、「俺の音は先生に比べて、おいしそうな感じがしない」と気付いた。これはぼく独自の感覚なので、よくわかってもらえないと思うが、クラリネットの本来の音というのは、何か、こうトコロテンを思わせる透明感というか、そんなイメージなのだ(もちろん、酢で食べるんとちごて、関西風に黒蜜で食べんといかん)。そういう音を出したい!

 「具体的に目標が定まっただけでも、進歩と言えるに違いない」と自分を励まして毎日、ほんのわずかでも吹くようにしている(10分、15分になってしまうこともしばしばだが)。左手の親指一本だけを使う「ファ」の音が今の最大の課題。楽器を落とすまいと自然に体に力が入る結果、楽器の傾きや息の出し方が微妙に変わってしまう。それで、音程が豆腐屋の笛のように揺れる。ただ、うまくできることもたまにあるので、もう一息だ、と思う。

 初めて一度も間違えずに通して吹けた記念すべき曲は「浜辺の唄」。本当は「峠の我が家」を吹こうとしたのだが、ちょっと難しいので途中で変更した(この二曲、ちょっと似ている...)。

 

4月15日

 春になってセーターを着ないで歩けるようになると、つくづく「人間は暖かいところの動物なんだ」と思う。冬の間中、全身に変な力が入っていたのがわかる。ずっと環境に対して戦闘態勢をとっていたのだろう。人類は全員、1人のアフリカ女性の子孫である、という「イブの仮説」を信じる気になるのは今日のようなぽかぽか暖かい日だ。

 「遺伝子の記憶」という言い方は、生物学に対する無知からくるまったくの誤りだ。しかし、様々な進化によって寒さに適応してきたとはいえ、それは後から身につけた、いわば「鎧」なのだろうから、やはりそんなものはない方が心地よいに違いない。

 いやはや、「俺は寒がりだ」といえば一言で済むところを、これだけ長ったらしくも言えるのだから、言語というのは奥が深い。

 

4月12日

 世間的に認められた銘品というわけではないが、いつの間にかしっくり来ていて、無意識のうちに長年愛用している、というモノが結構ある。そういうモノは空気みたいになっているが、突然壊れたりなくなったりすると、急に存在を主張し始める。ないと困るのだとはじめて気付くのだ。だが、代わりを買おうとしても同じモノは二度と手に入らない。だから、「金さえ出せば何でも買える」というのは実は幻想なのだと思う。

 たとえば、子供の頃、いつの間にか家にあったオーブントースターがそうだった。どこのメーカーのものなのかもわからない、はっきり言って安物だった。使っている間は、あるのが当たり前で、別段ありがたいとも思っていなかった。ところが、これが突然壊れたのだ。しかし、その時点では家族全員余裕綽々だった。なぜかって、それが三流品なのは明らかだったからである。つまり、これを機会に一流品(それでもたいした値段ではない)に買い換えればすべて解決、と思っていたのである。しかし、甘かった。鳴り物入りで導入された一流メーカー品は、どう頑張っても我々家族が以前に食べていたトースターを作ることは決してできなかった。大げさに言えば、オーブントースターと我が家との(そんなものが来ていることは露知らなかった)蜜月は永遠に終わってしまったのだ。

 壊れたりなくなったりしたときに代わりを入手するのは、「世間的に認められた銘品」の方が、金はかかるが、かえって楽だとも言える。幸い、品質は安定しているし、置いてある店もはっきりわかっているからだ。

 前置きが非常に長くなったが、今日の主題はトースターではなく、一枚のCDだ。発売元はポリドールだから、「一流メーカー品」には違いないのだが、これが、ぼくにとって「あの三流品のオーブントースター」を連想させるものなのだ。

 タイトルは「Cool Bossa 2」という。「Cool Bossa 1」というのもあるのかと思って探したが、どうしても見つからなかった。入っている曲はボサノバのスタンダードばかり。曲目、演奏メンバーからすると、古い音源らしい(ちゃんとしたライナーがないからわからない)。ちょっと気になったし、次に見に行ったらなかった、というのもイヤだから買ってきたが、全然期待はしていなかった。

 しかし、これが実にしっくり来る。世間的にクオリティが高いものなのかどうかはこの際まったく問題ではない。家にいつの間にか家にあったオーブントースターや、ブランド物でも何でもないのに妙に気に入ってさんざん着ているシャツのような感じ。

 この先、こういう「自分にだけ不思議にフィットするアイテム」に一体いくつ出会えるのだろうか...ふと感慨にふけってしまった。

 

4月8日

 ベイスターズ6連敗!何で?どうして?見ると、石井もローズも谷繁も、去年とは別人のようにロボットのような固い顔をしている。だいたい、去年はあんなに「放任主義の勝利」だのなんだのほめちぎったくせに、負けだした途端、「バントくらいしなきゃだめだ」、「連打なんてそう出るわけじゃない」なんて言い出すもんなあ。マスコミは。あげくの果てに言うに事欠いて「やっぱり去年優勝して研究されてますからね」だと。そんなのキャンプの時点でわかってるのに、誰も言わなかったじゃないかー!

 しかし、私は正しい横浜市民。負けても負けても応援するからね。勝てなくても、面白い、楽しい野球を見せてくれー。といってもやってる方はそんなこと言ってる余裕ないんだよな。きっと。

 

4月2日

 桜の花は妖気を放つというが、昨日の椿事(下記参照)は、そのせいかもしれない。昔は桜の下で乱心した人がたくさんいたというし。ぼくはどうも不条理の世界に強く惹かれるところがある。何か「真っ昼間から妖怪変化」というような世界に憧れるのだ。非常に臆病なので、実際に妖怪変化に出会ったら、腰を抜かして半歩と歩けないとは思うのだが、それでも一度でいいから会ってみたい。

 一説には、妖怪は、元々神なのだという。日本に一神教が導入される際、それまであがめられていた八百万の神(あらゆるモノ、現象に宿るアニミズムの神)が邪魔になり、「悪者」ということにされたらしい。だとすれば、それほど恐れることもないのだ。まあ、本来の神を忘れた倭の民を恨んでいるかもしれないが。

 ただ、不条理は好きだが、「条理」も同じくらい好きなので、「科学の発達で色んなことがわかってしまって面白くない」というような意見には賛成しない。今までわからなかったことがわかる、という興奮にはまた妖怪変化とは違った大変な魅力がある。

 おそらく、ぼくが不条理に惹かれるのは、ミステリアスだから、ロマンチックだから、といったことが理由ではなく、そこに古から営々と引き継がれてきた人々の「こころ」を感じるからだろう。妖怪とは、人が自分のこころの奥に見ていたものだと思う。

 

4月1日

 皆さんは、神通力というのを信じるだろうか。ぼくはあまり信じていない。しかし、ごく稀に、そういうものを信じるしかないようなことが起きる。

 桜が咲いて、空は晴れ。となったら、花を見に行かないわけにはいかない。近所のお花見スポットといえば、掃部山(かもんやま)公園にとどめをさす。しかし、これが何とも奇妙な公園で、何度か行ったことはあるのだが、いずれも何も考えずにふらふら歩いていたらいつの間にか着いていた、というだけで、一度も「掃部山公園に行こう」と意図してたどり着けたことはない。ロプノールという移動する湖があるが、実は「移動する公園」なのかもしれない(そんなアホな)。

 それでは悔しいので、途中で通りかかった野毛山公園も十分桜が綺麗なのにもかかわらず、それは無視して必死に歩いた。だが、無い。どこをどう歩いても取り憑かれたかのように野毛山公園に戻って来てしまう。あちらこちらにある地図を見ても「掃部山公園」という表示は一切見あたらない。もう、狐か狸に化かされたとしか思えない。結局、最後はあきらめて野毛山公園の桜をじっくり見ることにした。

 ぼくはハタと気が付いた。そういえば、野毛山動物園には、狐も狸もいたはずだ.............

 

3月31日

 しばらくサボってしまった。忙しいというのを言い訳にしていると、本当に書けなくなってしまうので、ここは一つ踏ん張ることにしよう。

 ぼくは下戸で、アルコールを口にすることは月に一度あるかないかなのだが、それでも、無性に飲みたくなる日はやはりある。実は今日がその日だった。クラリネットのレッスンが終わった帰り道、ワシントンホテルの前を通りかかった時のこと。ホテル1Fのレストランの照明(PM8:30だったが、いかにもバー・タイムという雰囲気)を見た途端、「あっビール飲みたい」という想念が頭を電光石火のごとく通り過ぎたのである。ただ、どうもそういうことに慣れていないので、すっと入って「あっビールください」なんてことはとても言えない。どうもしまらないけれど、仕方がないから、近所の酒屋に寄ることにする。

 大して違いなどわからないから、CMが好き、というだけの理由で一番絞りを買った。家に帰っておもむろにグラスに注いだが、場数を踏んでいないから、やり方が無茶苦茶である。どうも美味しそうにならない。実際、味も「こんなのだったっけ」と思うくらい甘くて妙な感じ。注ぎ方というのはかなり重要なのだと今更ながらわかった。

 それでもすっかりご機嫌の状態になり、"Stardust"など聴いてしまう。うー、幸せ。しかし、そこへ電話をかけてきたOさんに「酔っぱらってても、普段とあんまり変わらないね」と言われた。どういう意味やろ。普段と変わらず沈着冷静、というわけでもないだろうから....。まあ気にせんとこ。

 

3月23日

 目標に向かって淡々と冷静にコトを進める...そんなことができたら良いとは思うが、少なくともぼくの場合そうはいかない。ときには何かに背中を押してもらわなければならないこともある。

 長い間、意識的にベニー・グッドマンを聴かないようにしていた。クラリネットを始めて、それでやたらにベニー・グッドマンを聴いているんじゃ、いくら定番好きだからってあまりに紋切り型で、抵抗があったのだ。

 しかし、練習中、一瞬ではあるが、彼の音楽を思い出さずにはいられないオトが出てしまったのだから仕方がない。流れに身を任せ、きちんと耳を傾けてみることにした。まずは代表曲"Memories of You"。「やっぱりクラリネットだ。同じ楽器なんだ...」そう思うと、おぼつかないながらも無意識に合わせて吹こうとしてしまう。幸い、この曲はメロディーをほとんど暗譜していた。ほんの2〜3秒だが、寸分違わない(とぼくには思える)音が出た!

 気が付くといつもの二倍以上の時間練習していた。これであと1ヶ月はやれそうだ。

 

3月22日

 人間は見たもの、聞いたもの、触ったものをすべて記憶していて、ただ自分の意志では思い出せないだけだというが、ぼくにはとても信じられない。前に「記憶力には自信がある」と書いておいて矛盾するようだが、実は、よく覚えているのは、意識して見たり聞いたりしたものに限られるのである。意識していないものに関しては、赤ん坊、いや、ニワトリもかくや...と思うくらい何も覚えていない。よくこの年齢まで生きてこられたと自分で感心してしまう。CD一枚聴くにも、しまった場所が思い出せずに、大騒ぎである。

 またまた有隣堂本店。このWebページを立ち上げてから、やたら人のエッセイが気になるようになり、エッセイの本を続けて買っている。今日は同業者(というのもおこがましいような有名人)、青山南さんの「翻訳家という楽天家たち」。前から気になっていたのだが、ついに購入。思わずうなずいてしまうタイトルに惹かれたのだ。本当に、楽天家でないとこんな商売やってられない。つきつめて考えたら死にたくなるようなこともある。実際、ぼく自身何度か地獄を覗いている。これはやった人しかわからないという思う。また、逆に同業者で「おれは地獄なんか見てないぜ、いつも極楽さ」なんて言う人は信用できない。

 これ以上浪費しないようにと、足早に階段を降りた。2Fあたりで太鼓と笛の音が...東京音頭...チンドン屋だ! 無性にうれしくなり、全身がウズウズして、気が付いたら駆け出していた(ぶつかりそうになったおじさん、ごめんなさい)。

 表へ出たぼくの目に飛び込んで来たのは、驚いたことに見慣れたあの楽器。「チンドン屋の笛ってクラリネットやったんか....」せめてあのくらい吹けるようになろう、そう心に誓った。

 家へ帰ってさっそく東京音頭を練習したのは言うまでもない。

 

3月20日

 何でこんなに寒いのー!昨日は「靴下なんか履いてられねーぜ!Tシャツ一枚で歩いたろか」ってな感じだったのに。起き抜けのJ-Waveで大槻りこさん(かわいい)が「2月下旬並みの気候に」と言っているから驚いてしまった。鉄筋コンクリート(テッコン・キンクリートではない。古いね)の建物の場合、温度変化が外より遅れるから、ぼくの部屋の中は、まだKONISHIKIばりに「ブルー・ハワイ」と歌いたくなるぐらいトロピカルだったのだ。

 しばらくバタバタが続いているので、「うまいもんぐらい食わなやってられるかー」という気分になり、横浜と言えば...というくらいの名店「勝烈庵」に行くことにした。馬車道本店にウチから歩いて行けるというのが密かな自慢。木目の美しいカウンターの角に座ると、「勝烈定食、本日のみ1050円」の文字が....。何とツイているのだ(「うまいものを食う」といっても、出す金は1000円、2000円のレベルなのだ。関西人は安ゥてうまいモンしか認めまへん)。

 相変わらずおいしい。胃も快調なので、これはもう一杯ご飯が食べられそうだ。ただし、この「おかわり」が問題なのだ。ぼくは元来気が弱く、突然声を張り上げて人を呼ぶなどということがなかなかできない。しかも、声が通らないときている(歌手としては致命的...。誰が歌手やねん)。2度、3度無視され、周囲の注目を浴びてしまったりすると、もう味なんかわからなくなる。だが、ご飯は確実に、かなりのペースで減っていく。そして、あと一口というところまで来た。「さあ、今だ...」と思うが早いか、背後から店のおばちゃんが忍びより、お茶碗を受け取りに来てくれた。

 ダテに「名店」と呼ばれているわけではないのだ。勝烈庵、エラい!

 

3月16日

 普段、人の役に立っているのかいないのかわからない仕事にいそしんでいると(自分の仕事は気に入っているし、心優しい読者の方が、「本が役に立っている」と言ってくれることもたまにはあるが、それはそれとして)、何か切実に直接的に人の役に立つ仕事をしている人がときに眩しく見える。

 うちのすぐ近所、歩いて5分くらいのところに警察署と消防署が並んで建っている。この距離だと、火が出ても全焼は絶対にしないだろうから、至極安心である。

 晩飯を食って帰り道、その消防署の前を通りかかったら突然サイレンが鳴り響いた。火事発生だ。スピーカーから流れる声がテキパキと指示を出す。

 と、そこへ若い隊員が血相を変えて、今にも前へつんのめりそうな体勢で猛スピードで駆けてくる。「一刻の猶予も許されない。自分の肩に人の命が委ねられているのだ」という自覚が痛いほど伝わる。

 「ああ、この人に護られているんだ...」思わず手を合わせていた。

 

3月15日

 幸せは前触れもなく突然訪れる。でも、幸せは幸せそうな顔をしていないことが多いから、そばに来ていてもなかなか気付かない。

 今年も毎度お馴染みの確定申告だ。仕事が立て込んでいてあまり時間をかけたくなかったので、夜中に計算した。昨晩10時過ぎに作業を開始したら、某HS社時代の同僚、N氏が突如北海道みやげを手にやってきた。飛んで火に入る夏の虫、というわけで、手伝わせてしまった。領収書の金額を読み上げてもらったのだ。後でCA社のN氏(ややこしい)にそのことを話すと「中小企業のオヤジみたいですね」と言われたが、そのとおり、中小、どころか零細翻訳事務所のオヤジには違いないのだから仕方ない。AM4時過ぎになってやっとひととおり計算と控え用紙への記入が終わったので、一眠りすることにした。

 8時前に目覚めてみると、J-Waveでジョン・カビラが「昼から雨」というので、あせりつつ提出用紙への転記を始めた。だが、単に丸写しするだけなのに、これがまったくはかどらない。アホみたいである。結局昼頃までかかってしまった。外に出たらすでに雨が降っていた。まったくロクなことがない。あまり寝ていないから歩き慣れた道も恐ろしく苦痛である。

 石川町を歩いていたら、「光寿司」の看板が目についた。そういえばしばらく入っていない。「ネギトロ丼 \1000」の文字につられ気が付くと店内に。

 よくTVで「おいしいですね。この歯ごたえが....」とか「ほのかな甘みが」とかやっているが、本当においしいときに人はそんなことを言わない。本当においしいものを食べたときは日本語が頭に浮かばない。「おいしい」というより、ただひたすら気持ちよく、「クーっ」という野獣の叫びがこだまするだけである。\1000のネギトロ丼がそこまで凄かったわけだが、さすがに「クーっ」などと口に出しては言えないから心の中で絶叫した。

 税務署の帰り道、文教堂に寄り、寺田寅彦氏のエッセイ「俳句と地球物理」を買った。早く帰らねばならないのだが、面白そうな本を手に入れたからにはどうしても美味しいコーヒーが欲しい(なんでやねん)。横浜で一番うまいのは南蛮屋だ。しかし、海岸通りまで歩く気力も時間もない。どうしようと考えていると、すぐそばに2番目にうまいドトール(ごめんなさい、ドトール関係者の方)ができていたのを思い出した。ぼくは常日頃この会社を尊敬しているが、まったく良い場所に店を出してくれる。GPSなヌを駆使しているのだろうか。

 ちょっとシュールで、しかも妙に論理的な寅彦氏の文章を読みながら飲んだコーヒーの味は、寝不足で却って感覚が鋭敏になっていたのか、いつになく(すいません、ドトール関係者の方)素晴らしかった。

 ぼくは突然気が付いた。「何だ、今日って結構いい日じゃん」

 

3月13日

 関内からVirgin Mega Storeが姿を消してから、日に日に喪失感が大きくなっている。何と言っても神奈川県庁のある関内だから、CDを買う店くらいは他にいくらでもあるのだが、やはり売り方がひと味違うのである。「何が?」と問われると少し困るのだが、あえて大げさな言い方をすれば、店に入るだけでミュージック・シーンの体温とか、空気みたいなものを感じられるようなところがあったのだ。思うつぼと言ってしまえばそれまでだが、何か、フラっと入っても1枚買って帰らずにはいられないようなところがあった。あえて名指しするが、Disc Union、Yamagiwa、Shinseidoの皆さん、そこのところもう少し、工夫してください。本当は浪費しなくて済んで良いのかもしれないけど。

 それから、もう一点、Woody AllenのWild Man Blues(欧州ツアーでのライブ録音。同名ドキュメンタリー映画のサントラ)、何でどこにも置いてへんねん!

 

3月11日

 またまたクラリネットの話。

 高い音を出すのが好きだ。何か、自分で出しているのではないような不思議な感覚をおぼえるからだ。出す度に自分で驚く。多分、出すのが難しい、というのもその理由の一つだろう。とにかく、高い音が出ると「ああ、クラリネットだ」と思うのである。

 何にせよ、「〜らしさ」を出したときが最も素晴らしい。

 

3月10日

 クラリネットを本格的に始めて1ヶ月あまり、少しは上達したはず、と誰でも思うに違いない。確かにある一面でそれは真実だ。しかし、意外に思うかもしれないが、「音を出す」という楽器を演奏する上で最も基本的かつ重要なことに関して言えば、表面的には大きな進歩はしていない。

 何しろ、「これは良い音が出た」と感じるのは一日に一回くらいである。だから、ハタから見ていれば、「コイツ、本当に上達してるのか?」と言いたくなるだろう。運指、楽器の組み立て、持ち方などはすぐに良くなる。でも、一番難しいのは音を出すことなのだ。もしかすると、ずっとそうなのかもしれない。プロの人であっても...。

 よく考えてみれば、ぼくは一応翻訳のプロだけれども、何が難しいって、「英語を、それと同じ意味の日本語にする」ほど難しいことはない。一瞬、「何言ってんだか!」だが、何か1つのことに懸命に取り組んだことのある人なら、ぼくの言いたいことをわかってくれると思う。

 

3月9日

 春一番が来たと思ったら北風ビュービュー。でも、「春なんだから」と意地を張り、マフラーもなしに歩いていたら、これが結構なんとかなる。でも、後で日中の気温が4度くらいだったと聞いて背筋が寒くなった。おかしい。確かに割に暖かく感じたんだけど...。

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うが、こういうのは何と言えば良いのだろう。「春だと思い込めばアホは寒くない」くらいなものか。

 

3月8日

 譜面台を買った。大学生まではヘボ鍵盤弾きだったから、昨日今日音楽を始めたわけじゃないにもかかわらず、値段がいくらぐらいするものなのかもまったく知らなかった。考えてみれば、ピアノなどは譜面台がはじめから付いている。そういえば、少し前にメトロノームを買ったときも、値段を知らなくて驚いた。ずっとドラム・マシーンのドンカマを使っていたから、必要なかったのだ(ヤマハ・エレクトーン教室出身だし...)。どうしたんだろうあのドラム・マシーン(「母さん、あの帽子...どうしたんでしょうね」古い!!)。多分、両親の家のどこかに眠っているはずだ。当時CASIOPEAのメンバーだった神保彰のドラミングがサンプリングされているということで興奮して買ったのだが、今もちゃんと音が出るだろうか。CASIOPEAもメンバー・チェンジされたしね。だいいち、この頃フュージョンという音楽をほとんど聴かなくなった。

 部屋が狭いせいかとんでもなく大きく見えるのには閉口したが、ともかく、譜面台なぞ置くとたちまち「音楽やる人が住んでまっせ」という雰囲気が醸し出されてうれしい。クラリネットの音を出した後、気分が爽快になるのも良い。調子に乗ってコルトレーン風"My Favorite Things"の頭の部分を探り吹き(というのだろうか)してみたら意外にもうまくいった(楽器は違うけど)。ふふふ。しかし、思えば鍵盤はここで天狗になったのが間違いだったのだ。もう7才じゃなくて大人なんだから注意せねば。

 

3月7日

 「トリビュート・アルバム」、「カバー集」といった類のレコードには、「寄せ集め」、「便乗」、「焼き直し」といった悪イメージがつきまとうけれども、デキる人がちゃんと作るとこれほど楽しいものもない。もともとぼくは「芸術の発展」などにはまるで興味がなく、絵にしろ、映画にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、「自分が楽しければ商業主義的だろうが、二番煎じだろうがどうでも良い」というヤツなので、時折トリビュート的なレコードにハマる。

 しかし、Cassandra Wilsonの"Traveling Miles"の場合は、ぼくのような無節操な人間でなくても、またマイルスのファンでなくても楽しいに違いない。特に、シンディー・ローパーのカバーのカバー、"Time After Time"の新解釈には、'80年代に初めてオリジナルを聞いたときには思いもよらなかったこの曲の価値に目を開かされる。

 まあ、なんだかんだと言っても要するにこれだけ声が良ければ8割は勝ったようなもんである。それで歌っているのが名曲ばかりなのだから、もうこれでひどい出来だったらプロデューサーの首を締めてやる!といってもこのアルバムのプロデューサーは彼女本人なのだ。

 「声は王様だ」といつも思う。

 

2月28日

 「世界は一つになれない」というようなことを前に書いたが、そんな言葉を嘲笑うような歌がある。"You Make Me Feel (Like a Natural Woman)"がそれだ。キャロル・キングの作ったこの曲をアレサ・フランクリンが歌うのを聴くと、黒だ白だ黄色だと騒ぐのがばからしくなる。キャロル・キング本人が歌えば彼女の歌だし、アレサ・フランクリンが歌ってもまた、彼女の歌なのだ(実に当たり前のことを言っているが、本当にそう)。

 そこには初期のビートルズやストーンズがR&Bに憧れて作った曲のような気負った黒っぽさ(それはそれでとてつもなく良いが)はない。ただ、思ったまま歌ったらこうなっちゃった...という感じだ(本人の意識がそうなのかどうかはわからない)。

 とにかく何か「こうだ」と言い切ると、すぐに「いや、そんなことないんじゃない?」と考え直さざるを得ないようなことを思い出すのが面白いところだ。こういうことがあると、それだけで「まだまだ頑張って生き延びなければ損だ」と思ってしまう。

 多分、何をどうしても、歌える人、絵の描ける人、かけっこの速い人には絶対に勝てないような気がする。あとは結構なんとかなると思っているんだけど...。

 

2月27日

 ようやくのことでCD-ROM版「ランダムハウス英語辞典」を導入した。昨年末からクラリネットを買うなど巨額出費が続いたので、躊躇していたのだ。「リーダーズ+プラス」のCD-ROMはずっと以前から使っていて、ランダムハウスも紙は持っている。もうかなりボロボロだ(扱いが乱暴なせいもあるが)。

 定番の辞書なのに、ランダムハウスの電子化は異様に遅かった。版権の問題、出版社の意向など、色々理由は憶測されるが、本当にこんなに待たされるとは思わなかった。やはり商売柄、「ランダムハウス」と「リーダーズ」が揃っていないとちと不安である。

 「本は紙でないと」と思っているクチだが、辞書だけは電子媒体に限る。もう、あの重い辞書を手で持たなくても良いのである。一時は「このまま翻訳業続けたら、かなり鍛えられるな」と思うくらいだったから、実に楽になった。

 2つの辞書はうまい具合に互いを補い合っている。かたやリーダーズはイギリスの小さな小さな街の名前まで載っているような語彙の豊富さ(ギネスブックを訳すときにはこれがとても役に立った)が特徴、かたやランダムハウスは語源から当を得た用例まで個々の言葉について深くまで掘り下げられる。だから、とっかえひっかえ使っている。これが楽しい。

 それから、ランダムハウスの音声機能、これが想像以上に強力。やはり発音を正確に知っているのといないのとでは、言葉に対する理解度が違ってくるからだ。「通訳者じゃないんだから、発音なんて関係ないんじゃないの」と思っている人がいたら、考えを改めて欲しいと思う。ぼくは今まで自分がした勉強で一番役に立ったのはディクテーションとシャドウイング(ネイティブの話す英語を、一瞬遅れてまねをする練習。聴いてしまってから同じことを言うのではなく、聴きつつ、同時に話す。つまり、こっちがしゃべっている間も、ネイティブはしゃべり続ける。テープ、ビデオなどでもできる)だったと思っている。意外なことに「文章を実際翻訳してみる」というのは適切な添削者がいない限りさほど役に立たない(ある程度上達してからは事情が違ってくるけど)。

 

2月26日

 某氏から「このごろ日記が進んでいないようだが...」というツッコミが入ったので、頑張って書くことにする。こういう風に反応があるとやはり嬉しい。

 人間の記憶はアテならないとよく言われる。しかし、ぼくは自分の記憶力にはかなりの自信を持っている。まず、昔から無意味な数字の羅列を意外に簡単に覚えることができる。つまり、電話番号、歴史の年号などだ。割によく(1ヶ月に1〜2度)電話するところなら、確認しなくても大丈夫(したがって、ぼくは正式な住所録を作っていない。それから、携帯電話のメモリも空っぽ。メモ、名刺は大事にしてるけど)。それから、学校の授業の内容を異様によく覚えている。今も翻訳しているときに、ある構文を見て「あっこれあの先生が言ってたやつだ」と即座に思いだし、そのときの先生の表情、声のトーン、教室の雰囲気などをちゃんと記憶していることに驚いたりもする。ただし、自信を持ちすぎると時々痛い目に合う。

 訳していた文章に「キャッチ=22がどうのこうの...」というくだりがあったので、しめたと思い、本棚を早速調べ始めた。しかし、見つからない。ハヤカワのを買ってあるはずなのだが(原書でないところが、ちょっとシマラナイ)。やっとそれらしい本を見つけたら、それは「猫のゆりかご」。原題「キャッツ・クレイドル(Cat's Cradle)」は確かにちょっと似ているが(そうかあ?)、そもそも、作者が違う。非常にもったいないが、時間がないので、仕方なく(ぬあにが仕方なくだ!)本屋に走ることにした。10分で急行せねば。

 勝手知ったる他人の本屋(有隣堂本店)。あっという間にハヤカワ文庫のコーナーにたどり着いた(原書買えよ)。棚に「キャッチ=22」の文字を見つけたぼくは愕然とした。

 「なんや、2巻本やんけ....知らんかった」要するに、まだ買っていなかったのである。ホンマ、エエカゲンなやっちゃ。

 

2月24日

 クラリネットを吹いたときのクラクラ感がかなり少なくなってきた。先週などは「レッスン半ばで限界か!!」というような感じだったのに、今日は無事最後までやれた。

 何より大きいのは、変な音が出たときにどこが悪いのか自分でわかるようになってきたこと。まだまだ道は遠い(果てしない)が、これで練習がやりやすくなる。

 ふぅー。タイヘンだ...。

 

2月23日

 一度来てくれた客に繰り返し来てもらおうとするのは商売の基本だが、「また来てね」とはなかなか言えない商売もある。たとえば、医者、葬儀屋などがそうだ。悲しみにくれているときに「またいつでもご利用ください」などと言ったら逆効果どころの騒ぎではないだろう。

 少々カゼ気味なので、薬局(有隣堂のそばのマツモトキヨシ)に行った。パイロンα(シオノギ製薬関係の方、もし読んでいたらメールください)の入った袋を渡しながら、レジのおばちゃんは「またのお越しをお待ちしています」と言った。

 自分でもちょっとヘンだと思ったのか、おばちゃんはすぐに「お大事に」と付け足した。決してイヤミではなく、多分、こういう人のことを「良い人」というのだろう。

 

2月19日

 「定番」が好きだ。ゲテモノ、キワモノはどうも好きになれない。だから、どこにでもあるようなピーコート、どこにでもあるようなタータンチェックのマフラー、どこにでもあるようなジーンズ、どこにでもあるようなスニーカーといういでたちで歩き回る。Jazzだって、「名盤500選」のような本に素直に従い、当然のことながらハズレがまずないことにほくそえんでいる。インディーズとか、ブートレグにはまるで興味がない。辛くないカレー、カフェイン抜きのコーヒー、カロリー控えめのマヨネーズ、シュガーレスのチョコレート、ニコチンの少ないタバコ(ぼくは喫煙者ではないけど)といった、わけのわからんものは嫌い。

 中華街でチンジャオロースー定食を食べた。店は「九龍」。実は、中華街でチンジャオロースーを食べたのはこれが初めて。「中華街まで来てそんな普通のもの...」という周囲の意見につい負けて、頼めずにいたのだが、一人でふらっと入る分には誰にも気兼ねはいらない(どうも最近まで中華街の店に一人で入ることができなかったのだ。横浜在住10年近くなってようやく平気になった)。

 この間の店と違って、量は標準レベルで、ぼくとしては助かった。味も「ピーマンと肉!!」という、まさに絵に描いたような定番で納得。しかも値段は700円。その上PM0:30にもかかわらず、すいていた。夢のような話である。

 どうも「泳ぐ」という行為と、「中華街でメシ」という行為が1セットになってしまったようだ(通っているスポーツクラブは中華街の中にある)。

 

2月18日

 「何事も気持ちの持ちようだ」などと言う人がいるが、ウソに違いない。気持ちというものは、自動的に持ってしまうもので、意志の力で持つものではないからだ。「何でもプラスに考えればうまくいく」などと脳天気なことをぼくは言えない(プラスに考えるには、それなりの根拠がいる)。ただ、これだけは言える。「何か知らないけど明るい気持ちのときは、わりと何でもうまくいく」と。この微妙な違いをわかってもらえるだろうか....。

 とにかく、暗い気持ちのときでも何とかやれるパワーとスタミナを身につけたいものだ。

 

2月17日

 腹式呼吸ができない。いや、できてはいるはずなのだが(人間男子は意識しなくても腹式呼吸をするのだと昔教わったぞー)、正確に言うと「まだ、腹から息を出してもクラリネットの音が出ない」ということだ。ここのところ気が付くと手を腹に置いて深呼吸をしている。それから、先生言うところの「猪木の口(そういう感じの口をしないと良い音が出ない)」の練習。どちらも街角でやると実に異様なのはわかっているが、今のぼくは「誰にも止められない」のである。

 楽器を支える右手親指が痛くならなくなったり、キーをまったく押さえない「ソ」の音を怖がらずに(高い楽器を親指一本だけで支えるのは慣れないと怖い)出せるようになったり、着実に進歩はしている。でも結局、「息の出し方」という基本の基本ができていないので、どうしてもしばらく吹いているとふらふらする。貧血で倒れるのが先か、美しい音を奏でるのが先か、この「クラリネットレポート・シリーズ(いつの間にかシリーズ化している)」、すぐに続編をやるので乞う御期待(そやから誰も期待してへんて...)!!

 

2月16日

 ぼくは関西人だが、東京が嫌いではない。銀座を歩いたりすると、「やっぱり大東京やなあ」と素直に感動してしまう。普段の会話ではほとんど関西弁が出ないので、自分から言わない限り、関西人だと気付かれることはまずない。もちろん自分の生まれた場所なので大阪は好きだ。たとえば大嫌いなタレントがいたとしても、その人が実は大阪出身だとわかると(そして、見事な大阪弁でしゃべってくれたりすると)急に好きになったりするし、「広島はお好み焼きの本場」などと言われたりすると、「あほー!、お好み焼き言うたら大阪やないか。広島のんは別もんじゃー」と憤りを覚えたりもする(とてもおとなしいぼくは決してこんな風に怒鳴ったりはしないのだが...)。

 でも、子供の頃から巨人ファンで、クラスで浮いていたりしたし(今は正しい横浜市民として、ベイスターズを応援しています。V2間違いなし!)、関西人の異様なあけすけさ(それが良いところでもあるんだけど...。グリコのおっさんの看板や、かに道楽のカニなんかはとても好き)にも違和感を持っていた。言うなれば「こうもり男」なのだが、結局、自分が何事によらず「是々非々」の態度でしか臨めない性格なのだと気付いてからは、そのあたりにこだわるのはやめた。とにかく、何かを信じ込むことがどうしてもできないのである。信念なぞは薬にしたくてもない。最近では「ぼくは融通無碍だから」と開き直ることにしている。

 

2月15日

 今日は眠いので寝ます。お休みなさい。また明日。

 

2月14日

 このごろ、気が付くとラーメンを食べている。下手すると週に二回くらい食べている。以前から嫌いではなかったが、食べるのはせいぜい月に1〜2度くらいだった。どうも「ラーメン道」らしきものが世の中に生まれていることに、何事も神聖視するのが好きではないぼくは反発してさえいた。こんなに食べるようになった理由はわかっている。あまりにありきたりで困ってしまうくらいだ。

 あの「ニュースステーション」が悪いのである。あの番組が何を考えたか「一杯のラーメン」なるコーナーを始めたからだ。まあ、簡単に乗せられる方が悪いのだが、これだけのパワーを見せつけられると、所沢の農家の人が青ざめたのもよくわかる(あの報道が全面的に悪いとは思わないけれど)。

 ラーメンの嫌いな人、いたらメールください。

 

2月13日

 ブラックビスケッツではないが、「タイミング」は大切だ。たとえ同じことをしても、それがいつであるかで、インパクトはまるで違ってしまう。

 歯医者の佐藤先生は、「きっと痛いから麻酔かけてから削るね」と言った。嫌な味の薬をかんだまま5分間、注射をうたれて5分間待った後(もう顔の右半分は他人のものである)、ドリルがあてられ、さらにセメントを詰められた。そこまではまあ良かった。問題はそのあとだ。

 「今から3時間食べないでね」何てこった。AM11:30である。よりによって全身胃袋になっているときに...。

 

2月12日

 プラトン先生は、現実世界はイデア界(何もかもが完璧な理想の世界)の出来の悪いコピーである、と言っていたそうだが、時の流れというのは恐ろしいもので(時はいつの日にも〜親切な友だち〜)、偉い先生も長い時間が経過すると私のようなそのへんのやつに反論されてしまうのだ。さぞ無念だろうが、何しろ、「死人に口なし」である。

 先生が一つ見落としている(と思われる)のは、「イデア界は永久不変ではあり得ない」という点である。「イデア界に近づこう」と人間が懸命の努力をしても、決してイデア界にたどり着くことはできないが、もっと別のより素晴らしい場所にたどり着く可能性は十分にある。そうすると、元のイデア界は、もうとても「理想の世界」とは言えない色あせたものになり、人は新たなイデア界を作り上げる(哲学に詳しい人、間違ってたらどしどし教えてください)。

 人間の行動は、いかだで川を横切って向こう岸にたどり着こうとするようなものだ。ただ真っ直ぐ進もうととしても、どうしても下流に流されてしまう。しかし、たどり着いた場所が元の目的地よりも悪い場所かどうかはわからない。

 だから、よく言う「理想の現実のギャップ」などに悩む必要はあまりないとも言える。仕事をしていると、原稿を完成させるのが嫌でたまらないときがある。なぜかと自分の心理を分析してみると、「原稿を完成させること=自分の実力が露わになること」だからなのだと気付く。露わになった実力が自分なりの「イデア界」と隔たっているのを見るのが嫌なのだろう。しかし、〆切、生活上の必要などから、「とにかく恥ずかしいものでなければ良い」くらいに開き直ってともかく完成させてみると、元の理想とはかなり違うものの、意外に「悪くないじゃん(横浜弁)」という感じになることが多い。やたらに「完璧」ということにとらわれず、やれることを全力でやったことが自分を向上させたのだと思う。

 「遠足は行く前が楽しい」というような意見にはあまり賛成できない。

 

2月11日

 雪が降って冷たい風も吹いていたので、一日おとなしく仕事。有線で、普段あまり聴かない「ブラックコンテンポラリー」のチャンネル(ぼくは音楽に関しては黒人崇拝者なのだが....)に合わせてみる。ミディアムスローなリズムのうねりに、澱んだ空気が突如流れ始める。

 と、そのとき、空気の川を堰き止めるような鋭い音響がこだました。「...つわもの〜、に〜ほ〜ん〜だ〜ん〜じ〜」

 ぼくは今日が何の日かをようやく思い出していた。

 

2月10日

 何かを理解したいと思えば、普通は頭を使って考えるのだが、考えてもわからないこともたくさんある。

 ペットは飼えないのが常識のマンションのポストに「犬、猫など、ペットのお手入れ引き受けます」というちらしを入れる人がいるのだ。何というムダだろう。意図が読めない。

 もしかすると、単に何も考えておらず、マーケティングの努力をまったく怠っているだけなのかもしれない。地の果てまで冒険旅行に行かなくても、世界は驚きでいっぱいだ。

 

2月9日

 かなり泳いだ後、PM1:30ごろ、空腹の極で中華街を通ったとして、そのまま脱出できる人はよほど中華料理の嫌いな人だろう。ぼくは「よほど中華料理の嫌いな人」ではないので、これでもかと襲いかかる誘惑には勝てなかった。

 入ったお店は「錦江飯店」。いくつかのランチメニューの中からホイコーロー定食を頼んだのだが、これがスゴイ代物。メインのホイコーローはともかく、ご飯は直径20cmくらいのズンドウのお椀(つまり底までギッシリ!)に入っているし、それにほぼ同サイズの皿になみなみと入った豆腐とワカメのスープ、豆と高菜、さらにバナナ入りの杏仁豆腐まで。いかに真冬の北海道の原野を駆けるキタキツネのごとき状態の胃袋でも、かなり手強い(「ごはん、おかわりは」と聞かれたときは恐れ入った)。しかし、味は良かった(水泳と風呂で体のほてったところに辛いものを食べて、汗だくになったが...)ので、食欲に自信のある人にはおすすめ。

 ちょうどランチタイムもピークを過ぎていて、店の人もまかないを食べており、客は途中からぼく一人になった。交わされている言葉はむろん中国語。向こうは五人、こっちは一人。何だか日本人でいることが申し訳ない気持ち。

 しかし、これだけ食べて630円(税込み)は信じられない。何かが間違っているとは思うが、こういう間違いはいくらあってもいい。

 

2月8日

 アルコール依存症、買い物依存症など、依存症にも種々あるが、ぼくはどうやら「書店依存症」らしい。本屋に一度も行かない日はおそらく年に5回もないだろう。特に有隣堂本店(関係者の方、メールください。しつこい)。

 本というのは買えば買うほど欲しいものが指数関数的に増えていく。本の中には多くの場合、他の本について触れた箇所があるからだ。素晴らしい本を読んだとき、著者がある本を紹介していれば、もし、これまでまったく興味のなかった分野のものだったとしても、少しは関心を持ってしまう。そして、翌日、まさにその本を見つければ「やはり買うしかない」ということになるのである。

 というわけで、立ち寄らなければならないコーナーも次々に増え、ついにはすみからすみまで見て回ることになる。ちなみに、ぼくの本は有隣堂本店の1Fと4Fに置いてある(まったく関連性のない2つのコーナーに置いてあることが少し自慢だったりする)。手に取っている人がいるとドキドキする。「それ、ぼくが訳したんです」と言いたくてたまらなくなる。でも、そんなことを言われた方はどうして良いかわからないだろう。

 

2月7日

 「世界は当分一つになれない」と感じることはよくあるが、「〜を買えば、あなたも今日から大金持ちに」という類の宣伝文句を見たときなどもその一つだろう。これだけ氾濫しているのだから、いわゆる「開運グッズ」、結構売れているに違いない。それが売れることで実際に金持ちになっているのは売った側なのに....。こんな簡単な理屈に気付かないのだろうか。いっそのこと自分で開運グッズを考案して売った方が面白いと思う。それほどの気力もない人に大金が転がり込む道理がない。

 というわけで、ぼくは金持ちになるのは半分あきらめてます。今日もせっせとキーボード叩いています。それが楽しいんだからいいじゃないですか。

 上のセリフを「ウソつけ」と思って読む人がいる限り、やはり世界は一つになれない。

2月6日

 ゴマは美味しい。本当に最初に食べた人は偉い。こんなに都合の良い植物があるというのも考えて見れば不思議だ。

 大げさなことを言っているが、要するに今日食べた黒ゴマ団子がうまかったというだけのこと。とはいえ、ほとんど無味無臭と見えたでんぷんのかたまりを口に入れ、しばらく咀嚼したのちに、まさしく唐突に広がるあの感じは、こういう感想を抱かせるに十分だ。「ゴマが出てくる」とわかっていても、やはりそれは驚きなのである。

 ともあれ、こういう体験ができたのも、わざわざ中華街まで来てくれた友人たちのおかげ。感謝。

 

2月5日

 Webだというのに、どうもすぐ長文になってしまう。ちょっと張り切り過ぎたらしい。反省。少し簡潔にする。

 大通り公園(雪祭りやってる方ではなくて横浜の方)で陶器市をやっていた。確かなことはわからないが、どうやら定期的にやっているらしい。前回のときは萩焼のコーヒーカップを買おうかどうしようか迷って、「喫茶店できるくらい持ってるしな....」と思い、断念した。だいたいうちには、サイフォン、ドリッパー、コーヒーメーカー、エスプレッソマシン(掃除機よりやかましい14気圧。ポルトガル製)など、何でも揃っている。これ以上コーヒーグッズを増やしてどうしようと言うのだ。と考えながらも、やはり目はこの間の萩焼を探している。

 一周したが、どうもなさそうだ。その代わり、変なものを見つけた。本物そっくりの1/20スケールくらいの郵便ポスト(「えーえー、みんな私が悪いんです。郵便ポストが赤いのも...」の郵便ポストだ)。作りは感動するくらい精巧だが、いったい何につかうのだ。よくわからん。それから、信楽焼の狸。大小取り混ぜたのが20匹(と数えていいのだろうか)くらい並ぶと笑ってしまう。しかも高いには恐れ入った。ごく小さいのでも1万2000円くらい。大きいのは10万、20万である。

 深い緑の、いかにもコーヒーがうまく飲めそうなカップを発見したのだが、1万円という値段に恐れをなし、退散した(ぼくはB級陶器ファンなのだ)。

 あー!、なんだ。今日も長いじゃないか。

 

2月4日

 「肺活量」つながりと言うべきか、今日は水泳の話から(つながってるかなー)。久しぶりに泳ぎに行った。新しいスポーツクラブに入ったからだ。前のスポーツクラブはプールを使いたいときに限ってスクールに占領されてしまっていたので、業を煮やしてやめてしまった。もう、かれこれ1年以上泳いでいない。急な運動は身体に毒、ということで今日は25メートルを10本で切り上げた。そのうち、1kmを2日に1度、というくらいの水準にまで持っていきたい。クラリネットの習得とともに1999年の目標。

 体を動かすと当然腹が減る。というわけで、昼飯にする。桜通りの「ぷらむ」。入ると、カゼでダウンし、しばらく姿の見えなかったマスターの顔があった。「おー、大ちゃん、しばらくじゃんよー(30男に"大ちゃん"もないものだが、ガッコ出たてのころから通っているので仕方ない)」「カゼはもういいんですか。ぼくはしょっちゅう来てたけど、見えなかったから...」「うん、もう大丈夫」。やれやれ、ほっとした。ママさんの話では結局、1ヶ月の休養だったらしい。本人は「そんなことないよ。1週間くらいだよー」と言い張っていたが。

 誰をつかまえても、つい、クラリネットの話をしてしまう。それを聞いて、ママさんは「いいよねー、楽器やるとね。私もね。ずっとピアノ弾けたら良いなって思ってたんだけどね...」。てっきり、下の句は「やれないよね」かと思ったら、実はひょんなことからピアノを手に入れ、もう1年近くも習っているという。「私も、もう67で、ダメかと思ったけど、やっとバイエル2/3くらい終わって...」。耳を疑った。とても「やっと」とは言えない急テンポだ。ピアノを練習しているから、マスターが倒れて入院している間も、寂しいどころか、じっくり練習できて良かったとのこと。何ともはや。

 その後は、いつものコースで、またイセザキまで流れて来た。有隣堂に入ろうとしたのだが、そのとき松坂屋の方から「それではお聴きください。"津軽じょんがら節"」という声が聞こえた(有隣堂、松坂屋の関係者の方、万が一読んでたらメールください)。「ほんまかいな...」。生でめったに聞けるようなものではない。本場のフラメンコをやっていたこともあるし、モルモン教の布教をしている人や、托鉢僧までいる。どういう街なんだろう。ここは。

 

2月3日

 やはり時には素直に(カネを払ってでも)人に教えを乞うべきなのかもしれない。一人で試行錯誤していたときにはどうして良いか皆目検討もつかなかったことでも、ちょっとしたアドバイスで一気に解決したりする。今日のレッスンはその典型のようなものだった。まず楽器の組み立て方。「こう持つとこわれるかもしれないから、こういう風に持って」と具体的に言われるとなるほど当然のことなのだが、ほんの少し前までそんなことは夢にも考えていなかった。

 まずマウスピースのくわえ方、息の吹き込み方、楽器の持ち方、運指などを少し教わり、一通り音を出してみる。20分ほど教わっただけなのに、今まで出せなかった音がウソみたいに出る(もちろん少し厳しいことを言えばまったくナッチャいないのだが...)。

 最後は「ロングトーン」と言って、1つ1つの音を息の続く限り出す練習をした。先生と一緒に吹いたとき、負けず嫌いのぼくはとにかくムキになって長く音を出し続けた(アホに相違ない。でも、肺活量には自信があるのだ)。その甲斐あってか、先生の音がやんだ後も、0.5秒ほど息が続いた。「勝ったな...ふっ」と思ったのもつかの間、「ちょっと音が細くなりましたね。息を続けようと思って加減しているでしょ」。すっするどい。自分でも気が付かなかったが、確かにその通りのようだ。プロの耳はごまかせない。今度は意識して全力を出して吹いてみると、ミ〜ファ〜ソ〜ラ〜シ〜ド〜レ〜ミのあたりでめまいがした。このままでは命に危険が及ぶ。仕方がないので、白旗を上げることにした。「ちょっとめまいがします」そう言うと、「そうですね。最初の1ヶ月くらいはそういうもんですよ」そっそんなハードなものだったのか。これは来週までの宿題。

 

2月2日

 とうとうクラリネットを習うことになった。初レッスンは明日。「なぜ今頃クラリネットなの」「昔ブラバンやってたの」など、数々の不審の声にさらされながら、思わず買ってしまったクラリネット。「パパからもらった」のではない。自分で稼いで買ったのだ。壊れて出ない音はまだないが、ウデがなくて出せない音はいくらでもある。実は管楽器は小学校のアルトリコーダ以来だから、笑わせるではないか。単に「Woody Allenが吹いてるから」という安易な理由で始めたとは先生には言えない。しかし、レッスンのために買ったリードの箱(Vandoren made in France。クラリネットのシルエットがカッコイイ)を眺めていると、俄然やる気が湧いてくる。初レッスンの模様もレポートするので、乞うご期待(誰が期待してるねん)。


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